太宰治の恋人
父は、北関東の小さな町から東京へ出て、苦学していた。祖父はすでに他界し、祖母は細々と百姓をしていた。父が33歳の時にその祖母も亡くなり、私は祖父母には1度も会ったことがない。
東京の父は、都立第九中学校(現都立北園高校)の卒業を待たずに、豊島商業学校へ移っていた。尋常小学校の卒業を前に単身東京へ出ていた父は、不都合が重なり、進学が遅れていた。中学よりも豊島商業へ行った方が早く大学受験の資格を得ることができた。九中は名門だったが、苦渋の決断をして、商業へ通っているところだった。
元芸子の大家さんが切り盛りする南陽館という下宿が、父の生活の拠点だった。下宿だが賄いはなく、戦争中の当時は、専ら外食券食堂での食事だった。相前後したが、頃は昭和19年から20年。ここは御茶ノ水駅近くの本郷1丁目である。下宿の近くには、博雅という中華料理屋やお茶の水料理学校という各種学校、外食券食堂や、松竹の社長の邸宅がある。そして、お茶の水美容学校もあった。
お茶の水美容学校は洒落た洋館で、創設者は山崎晴弘という人物である。本郷1丁目の町会長でもある。小柄で、脚にはいつもゲートルを巻いている。米軍機が度々編隊でやって来ては、街を焼き尽くす目的で、焼夷弾を落としていく。世に言う、空襲である。町会長は、町内の人々を防空壕に誘導する責任者でもあった。
父、つまり康次青年は、
「空襲警報発令――! 空襲 空襲」
とブリキのメガホンで町内を触れて回る仕事を、町会長から仰せつかっていた。
町会長のところには、富栄(とみえ)さんという娘がいた。年の頃は25歳。写真通りの、なかなかの美人である。父親と同じ、小柄な人である。
彼女はすでに結婚していた。旦那は商社勤めで、結婚するとすぐ、単身マニラへ赴任した。時折、町会長が手招きをする。苦学している学生に、娘の手料理でも振る舞おうという態だ。そんなことが幾度かあった。自宅へ上がると、彼女はすでに台所に立ち、煮物をしている。
時折、茶の間へ顔を出し、
「あら学生さん、出身は――」
「あなた、どこの学校へ行っているの」
二言三言、声をかけてくれる。
白粉の仄かな香りがした。踵を返した彼女の、髪を結い上げた白いうなじが、康次青年の目に映る。やがて食事が振る舞われる。
戦争が終ると、富栄さんは美容師として、三鷹で働くようになる。昼間は友人の美容室、夜は進駐軍のキャバレーにあるヘアーサロンだ。
翌昭和22年、27歳の時、彼女は仕事の帰り、屋台のうどん屋で酒を飲む、太宰治と出会う。彼女の兄が、旧制弘前高等学校の出身で、太宰の2年先輩だった。彼女の下宿も、太宰が行きつけの小料理屋の斜め向かいにあった。そんなことから話がはずみ、2ケ月後には太宰から、
「俺と死ぬ気で恋愛してみないか――」
と口説かれた。
1年後の6月13日、富栄さんと太宰は、深夜の玉川上水で投身自殺を遂げる。
康次青年は新聞でこれを知る。19日になって、2人の遺体が発見された。太宰はすぐに運ばれ、手厚く安置された。富栄さんは粗末な茣蓙(ござ)をかけられただけである。彼女の父親がそれを見て、呆然と立ち尽くす姿が写真に撮られ、新聞に掲載されていた。康次青年は、彼女の最後の姿など見たくはなかった。
思い出を話す父の瞳が潤んでいた。
了
2016/06/09
小倉一純
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