自己紹介
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作品でつづる自己紹介
― 逆時系列に作品を並べています ―
作家志望時代(現在)
還暦近くに再起して、文筆家として世に出ることを誓う。大学を卒業後、進路決定までずいぶんと時間がかかってしまった。あの長嶋茂雄をしのぐ40浪である。
長嶋茂雄の場合、第1次巨人軍監督時代と第2次巨人軍監督時代との間に11年間の隔たりがあった。世間はそれを、彼の「浪人時代」と呼んだ。
結局、僕は今、ようやく乳離れしようとしているのかも知れない。
島尾敏雄の著作『死の棘』の表現を借りれば、僕の同級生などはもう配偶者との肉離れさえもすんでいる、と聞く。どこまでいっても僕は人よりツーサイクルは遅れている。
最後には、帳尻を合わせたい。そのための唯一の手段は、長生き、ということなのかもしれない。 どうだろっ!
◆◆◆
「ずっと小説家になりたいと思ってきた」
高校のころつき合っていた彼女に――僕が札幌に行ってパチンコ屋の釘師になったらどうする?――と何度も尋ねたことがあった。
世間知らずの高校生が考えることだから、ろくなことではない。とにかく人生の裏街道を歩くことで辛酸を舐め、それを原稿用紙に綴ろうと考えていたのだ。僕はそのころから小説家になりたいと思っていた。
高校時代には、勉強もそっちのけで文庫本を漁った。SFも海外文学も日本の小説も、ひと通りは読んだ記憶がある。
僕には発達障害があって――後年五十歳を過ぎて判明する――、当時から本を読むのは苦手だった。だがそれは文字を追うという作業が不得意なだけで、本の内容には大いに興味を抱いていた。
彼女とは高校二年の三学期につき合いはじめた。教室で席がとなり同士になったのがきっかけである。僕はチューインガムに小さな手紙を忍ばせて彼女に渡した。愛の告白である。翌日、朝のホームルームが始まる前に、彼女がとなりの席で、僕の方を振り向いて、こっくりと頷いた。カップルの誕生である。
彼女の自宅は僕が自転車で通学する途中にあった。僕は毎朝彼女の家の呼び鈴を押し、そこから二十五分、ふたりで歩いて高校まで通った。
その彼女には、一浪の受験も近いある冬の日に電話で別れを告げられた。翌日、母親が出してくれた朝食の玉子焼きから昇り立つ白い湯気を見て、僕は猛烈に腹が立った。八つ当たりである。
彼女は、訳の分からないことばかりいい、将来性も感じられない僕に愛想が尽きたのだろう。彼女は医者の娘だった。
そんなことがあり、受験では二浪することになる。正確にいえば、一浪で不本意ながら入学した獣医学部に半年通い、その秋から僕は札幌の国立大学を目指した。
辛うじて合格したその大学には、恵迪寮という名物男子寮があった。毎年冬になると裸に褌一丁の学生が二階から雪の中へ飛び込む。そんな蛮カラな校風で知られていた。小説家を目指す僕には相応しい校風だと思った。
その恵迪寮はひどく老朽化していたので、あるとき消防署の係官が訪れていった。
「火災が発生したら学生さんは消火しようとせずにすぐ逃げてください」
そのすぐ後で、寮は解体され場所を移して鉄筋の恵迪寮となった。
木造恵迪寮の最後の思い出は、ザ・ベストテンというTBSの番組がやって来たことである。
司会は久米宏で、東京のスタジオにいた。恵迪寮の現場には、女優の松坂慶子が、雪の中でスポットライトを浴びて立っていた。
その時、背後に群がる学生の誰かが彼女の身体をさわったというので、気丈な彼女がわれわれ野次馬一堂を一喝した。
「誰よ! あんたたちでしょっ」
その怒った顔がとても美しかった。
折しもその日は恵迪寮生による夜間の雪中飛び込みの日であった。
小説家といわず文筆家となるには、大学時代もたくさんの本を読まなければならない。例えば新聞記者になるのだって年に百冊、いや二百冊を読まなければいけない、と当時の就職雑誌かなにかで読んだことがあった。
大学時代も引き続き文学作品は読んでいたが、さすがにそんな数の本は読めない、と思った。僕は自信をなくしていった。
やがて、北国の単身生活の寂しさから、僕は居酒屋に通うようになった。
その居酒屋も、小説家志望らしくできるだけ場末の店を選んだ。人生の吹き溜まりのような小さな酒場が僕の好みだった。もっとも懐も寂しいから、そういう店以外に行くこともできなかったわけである。
行きつけの店では何度か修羅場を経験した。ある晩、客同士の喧嘩があった。ちょっとした口論の末、かぶりを振って出ていこうとする男性の頭にビール瓶が振りおろされた。その中年は木枠の扉を開けたところで顔から前方へ崩れるように倒れ込んだ。雪の路地がぱっと鮮血に染まる。店のおばちゃんが駆け寄り素早く傷口を押さえるとほどなく救急車とパトカーがやって来た。僕は思った。作家となった暁にはきっと今晩の顛末を書いてやろう。
僕は酒場がよいをするため、アルバイトに精を出さなければならなくなった。仕事は土木作業を選んだ。札幌で一番アルバイト料が安いというその造園会社の社長夫人は、
「うちで働ければ、このあと、どんな厳しいところへ行っても大丈夫だから」
といい豪快に笑った。
本音をいえば、もっと実入りのいいアルバイトを選びたいという気持もあった。だが、当時の僕はずぼらだった。大学の学生課に出かけるタイミングがいつも遅かったのだ。それで毎年、同じ造園会社を紹介される羽目になった。家庭教師など、普通の学生が飛びつくような仕事には端から関心が薄かった。
造園会社では、お得意先に札幌郊外の寺院があった。
その住職が暮らす庫裡の前庭の雑草取りを、僕ともうひとりのアルバイトが受け持った。彼は札幌市の自宅から小樽市にある商科大学に通っていた。
前庭はひょうたん型の島のようになっていて、中心あたりに石灯籠が建っていた。その島の縁には得体の知れない深緑色の草が生えていた。芝生というよりも、ニラを思わせるものだった。
僕らにはそれが雑草か否か分からなかった。ほかにも素性の分からぬ植物が何種類もあった。
「この草どうする? 一応ぬいておこうか」
「いやぁ、ちょっと待ったほうがいいんじゃない―」
そうこうしているうちにお茶の時間になった。住職の奥様が氷を浮かべた麦茶を持ってきた。それをお盆ごと庭石の上へ置き庫裡へ戻ろうと踵を返しながら、
「あなたたち、ほんとうに仕事がはやいわね」
と一言いって立ち去った。
今思えば住職夫人のあの言葉は、手を休めてばかりいる僕らに対する嫌味だった。
あれから三十五年が経ち、僕は父がつくった猫の額ほどの庭を手入れするようになっていた。そこであのときの寺院の植物は「龍の髭」であることを知る。日当たりが悪くてもよく育つ。いわゆる下草として植える植物だった。
結局、大学時代、それなりに読書もしたのだが、そのほかに大した勉強もしなかった。
僕は経済学部だったが、リベラルアーツを標榜する母校では、文学部の講義も受講することができた。教授がいった。
「そんなに文学に興味があるのなら、私のところに書いたものを持って来なさい」
「…… 」
「個人的に見てあげるから―」
そんなチャンスもあったが、結局、棒に振ってしまった。自分の気持に素直に向き合うことができなかった。第一、僕にはまったく自信がなかった。誰がなんといっても小説家になるのだ、という信念を貫くことができなかったのである。
かくして僕は、最大公約数的な発想であり、両親の願いでもあった、普通の会社のサラリーマンとなる道を選んだ。
それからは苦手な仕事に追われて、僕は本を読む時間をまったく持てなくなった。小説家になりたいと望んでいたことも遠い昔の出来事となっていた。
世紀末の西暦二〇〇〇年、男の厄年四十二歳で、僕は会社を辞めることになる。絵に描いたような散り時である。世の中はミレニアムに沸いていた。一方、僕の精神的な不調も頂点に達していた。
僕には、わずか二か月ではあるが、精神科の入院歴がある。二十九歳のときであった。
薬を服用し休養した僕は、その翌々年には社会復帰を果たす。会社も、鉄鋼から精密機械へと転職をした。
だが、精密機械メーカーで働いているときに、行き詰まりやぼんやりとした不安を感じるようになっていた。
そんな気分を変える意味もあって、その会社を一年で辞し、今度は産業ガスメーカーへと転職をした。
事態は好転しなかった。調子はさらに悪化し、僕は都心の本社に通勤することができなくなった。会社はやむなく僕を地方の工場に転勤させた。
それから七年、僕は現業に精を出した。
工場の周囲は広いキャベツ畑で、視界を遮るものは何もない。正面には筑波山を望むことができた。冬の寒さが身に堪えた。筑波おろしである。
もうだめだ――、会社を辞めようと思ったとき、二十世紀も幕を閉じようとしていた。
それから僕は自宅で十五年の間、療養生活を送ることになる。
その後、小康状態を得て、今度こそ本腰を入れて文筆家を目指そうと決意した。僕は五十七歳になっていた。
やがて五十九歳で同人誌随筆春秋の門を叩き、僕はその会員となった。そこでの研鑽の甲斐もあって、僕はその随筆春秋や他誌でいくつかの賞をいただくことができた。
気がつくと五年が過ぎていた。今、僕は少し焦っている。人生の残り時間が気になるのだ。だが、必ずやり遂げようと思っている。
僕はずっと小説家になりたいと思ってきた。その思いは今も変わらず続いている。
了
会社員時代
世紀末の2000年、男の厄年42歳で、不本意にも、サラリーマン人生から足を洗うことになる。精神的には限界に達していた。転職もせず、停年まで勤め上げるのが僕の理想だったのだが。そして、それが勤め人の鏡であるとも思っていた。とはいうものの、サラリーマンが自分の、男子一生の仕事だとも思えなくなっていた。
勤務していた製鉄会社の当時のCM(博報堂)。鋼板や厚板のほかに、屋根材、壁材、浴槽などもつくっていた。
東芝が、2兆円という破格の値段で身売りすることが決まりました(2023年3月)。僕は子供のころから、この会社に憧れを抱いていました。1950年代後半に生まれた僕らにとって――、「三種の神器」つまり白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫はもっとも馴染のある電化製品でした。僕もいつか大人になったらこんな立派な会社の社員になりたい、と思ったものでした。そんな僕にとって、東京芝浦電気、三菱電機、日立製作所は、人生の目標でした。残念ながら、この3社からはご縁を拒否され、僕は中堅の製鉄会社の経理マンとなりましたが。結局、その会社も、昨年の3月末をもって、実質的に姿を消してしまいました。
「会社消滅」
本日、3月31日をもって、僕が社会人となって最初に勤務した会社がこの世から姿を消します。わずか5年の在籍でしたが、僕が初めて社会の風を受けたのが、この会社でした。
図らずも経理課――ビジョンのない僕には特に希望などなかったのですが――に配属となり、僕はとてもショックを受けたことがあります。それは、自分がまったく仕事ができなかったことです。
経理課では、高校を卒業して経理の専門学校に1年通った女子社員の方が余程、役に立っていました。当時、銀行でもこんな笑い話がありました。ある大卒が、
「すみません。この帳面に借方、貸方というのがあるんですけど、どこから借りて、どこに貸した、という意味なんでしょうか」
(周囲唖然)
僕は原価計算係でしたので、借方貸方は分からなくても仕事はできましたが、まあ似たようなことでした。
その後、僕は、事務処理ということと真剣に取り組み、役に立たない大卒と言われないように、技能向上には心血を注ぎました。今もそのことを肝に銘じています。
元来、大雑把でズボラな僕ですが、この会社でショックを受けたお陰で、今では様々な事務処理を上手くこなせるようになりました。そういう意味で、この会社は、僕にとっては、大きなターニングポイントとなりました。
その会社が結局、日本製鉄という大きな会社に飲み込まれてしまいました。かつての本社も、横浜、川崎、相模原の工場も、もうありません。そして、最後まで稼働していた、知多半島の付け根の臨海工場も、本日をもって稼働停止となります。
製鉄業は素材産業で、物の流れからいっていわゆる「川上産業」に当たります。1999年に日産の総帥としてカルロス・ゴーンが着任してからは、部品、素材メーカーへの徹底的な値引き要求の煽りで、そのしわ寄せを最も受けたのが、最も川上の素材メーカーでした。
その「ゴーン・ショック」が、製鉄業界の「業界再編」を促進したと言われています。注文はあるから忙しいが、利益が出ない。それどころかつくればつくるほど赤字が出る。こういうのを「自転車操業」と言います。業界では「利益なき繁忙」と言い、とても苦しんだようです。
もっとも、僕はそのころはもう他社に移っていましたから、それを直接経験したわけではありません。そんな想いや思い出のある会社です。それが、今日でこの世から姿を消すことになりました。残念、の一語に尽きます。
了
2022.03.31
小倉一純
「兵どもが夢の跡」
もう35年も前の話だが、僕が社会人となったころには、日本金属工業、日本ステンレス、日本冶金工業という3社があった。
これらは、電気炉でスクラップを溶かしステンレス鋼を製造する会社だ。売上はそれぞれ1千億円程度だった。いまどきの巨大企業からみれば大した額ではないが、もっと規模の小さな鉄鋼会社も数多くあった。
当時はこれらを「ステンレス専業3社」と呼んでいた。それぞれの労働組合も、常に他の2社の様子を睨んで動いていた。
その3社のうち最初に名前が消えたのは日本ステンレスだった。住友金属工業に合併された。それからしばらく経って、僕のいた日本金属工業が、日新製鋼と合併した。実質的には吸収合併といっていいかも知れない。
日本金属工業の名前は消え、日新製鋼となった。時を置かずその日新製鋼も、日本製鉄に飲み込まれ、名前を日鉄日新製鋼と変えた。日本製鉄というのは新日本製鐵の新社名だ。
そして本日2020年4月1日、その日鉄日新製鋼も、日本製鉄に合併され解散した。これですべてが、日本製鉄の名のもとに一本化された。
鉄鋼は合併を繰り返しスケールメリットを追求することで、みずからの生き残りを模索しているのだろう。
話は相前後するが、日本のインフラ整備があらかた終わり、鉄鋼は構造不況業種といわれ続けてきた。会社は利益なき繁忙に追われた。注文はあるが取引価格を叩かれ、つくればつくるほど赤字を出した。だが、製造をやめると会社は潰れてしまう。まさに自転車操業だ。これが川上産業の宿命だった。
川上産業というのは、完成品メーカーなどの川下産業に対して、原材料メーカーを指していう言葉だ。
製造所で働いていた僕らは、残業代を自主返納してまで頑張っていた。もっとも僕は入社5年で転職してしまったので、大きなことはいえない。
だが、そんな思いまでして働いた会社があっさりと消えてしまった。社会人としてのイロハを教えてくれた会社でもあったので、感慨もひとしおだ。
会社って一体何なのだろうか。誰のためのものなのだろうか。苦楽をいっとき共にした思い出だけがひとり歩きをするようになるなんて……。
「夏草や兵どもが夢の跡」
という芭蕉の句が脳裏をかすめる。
元ドリフターズの志村けんさんが亡くなってしまった。影の薄いところなんて微塵もなかったのに。
人も会社も、こちらの想いとは関わりなく、サッと姿を消す。
無常である。
了
小倉一純
大学受験時代
【まとめ】
現役のときには、千葉大の建築学科を受験し、予想通り不合格であった。翌年は、第1志望の東京農工大の獣医学科を不合格となり、結局、日本大学の獣医学科に入学を決めた。しかし、どうしても獣医師になるのだ、という強い決意もなく、秋がくると受験のため再び予備校の門をくぐった。こういう状態を「仮面浪人」というのだそうだ。晩秋の肌寒い勉強部屋で受験雑誌に穴が開くほど目を通し、僕は、北海道大学の経済学部を最終目標として設定した。北大を選んだのは、父親が役人で、旧帝大をすすめたからである。父の勤務先は電々公社(現NTTの前身)で、かつては逓信省という役所だった。僕自身も、蛍雪時代(旺文社の受験雑誌)を熟読して、旧札幌農学校の蛮カラな校風に憧れを抱くようになっていた。1週間も前から札幌のビジネスホテルに泊まり込み、厳寒の北海道で決死の覚悟で受験に挑んだ。その甲斐あって春からは北海道大学・文2系の学生となることができた。学部移行では順当に経済学部経済学科に進み、結局、大学は5年かかって卒業した。北大に進学したお陰で、飛行機と船(青函連絡船)にはずいぶんお世話になった。当時はまだスチュワーデスと呼んでいたCAさんたちの艶やかな姿がいまも時折り脳裏を過る。
◆◆◆
「建築家志望だった僕」
ちなみに僕は建築フェチです。建造物が大好きなんです。
高校時代、友達の家へ遊びに行くと、迎えてくれた親御さんに挨拶もせず、框(かまち)のすぐ向こうの床板をゲンコツで叩いたり、玄関の三和土(たたき)に敷いてある石の値踏みをしたりしていました。
相手は怪訝な顔をします。ウチの息子にもこんな変人の友達がいたのかと――。
僕は現役のとき、千葉大学の建築学科を受験しました。1校だけの狙い打ちでした。 本当のことをいうと、まったく勉強しておらず、高校を卒業するのもやっとでした。何校も受験するのは、金をドブに捨てるのと同じことでした。
「小倉、お前の場合は大学を受けるより高校を卒業しろ。受験なんて10年早い」
担任にいわれました。茶屋下先生は英語の担当で、太子堂の下町風情な街の一角に居を構えていました。余談ですが、近くにはある女流作家※の邸があり、先生はそのことをいつも自慢していました。
※直木賞作家、佐藤愛子
さて、千葉大の受験当日、すべての科目が終わったので、僕は鞄に文房具を放り込みました。そして、花畑の脇の、校舎と校舎をつなぐコンクリート打ちの連絡通路を歩いているときに呼び止められました。
「君、建築学科だけは最後に歴史の試験があるぞ。まだ帰っちゃダメだよっ」
確信犯でした。どのみち不合格は決まっていたので、大方の受験生が帰るのを見て、僕もその流れに乗ったのでした。 やっとすべてを終えて帰宅しようとキャンパスを歩いていると、JR西千葉駅もほど近い正門が見えてきました。教育学部の女学生たちが、実習なのか、子供らを遊ばせています。
教職を志望するだけあって、皆、優しい笑顔をしていました。僕はもう2度とそんな彼女らの顔を見ることはないだろう、と思うと、気持が凹みました。翌年はもう建築学科は受験しませんでした。
理由は簡単です。僕は絵が下手だったからです。建築学科は工学部ですが、デザインを扱う仕事なので、デッサンの授業があると入学案内には書いてありました。 僕は卒業した暁には黒川紀章や丹下健三のようになろうと思っていました。絵も描けないようでは、絶対に彼らのような一流建築家には成れない、と頑な思いを抱いていました。
僕は愚か者でした。2級建築士の資格を取り、苦労して1級建築士となり、庶民住宅のリフォームをすることだって立派な建築の仕事です。 デッサンだって基礎から勉強すれば、誰にでもそれなりのものは描けるようになるはずです。別にレオナルド・ダビンチにならなくてもいいのですから。
そのころの僕はそういうことをまったく分かっていませんでした。
了
小倉一純
高校時代(昭和49年~昭和52年)
「都立高の学校群制度― 憧れの西高 ―」
当時、都立高校は学校群制度を導入していて(昭和42年~昭和56年)、都立西高と都立富士高がグループになっていた。受験生はその32群を受ける。そして、合格後は、どちらかへ振り分けられることになる。
32群が、中野、杉並、練馬の3区の受験生にとってのトップ高であった。僕は練馬だった。
発表当日、木造掲示板の都立富士高のところに自分の名前があるのを見つけ、僕は目の前が真っ暗になった。発表会場は、その都立富士高の正門を入ってすぐの、校舎前だった。僕は、都立西高を志望していた。
高校進学がくじ引きのようなことで決まる、とは、東京都教育委員会は罪なことをしたものである。この学校群制度のお陰で、都立高校のレベルはその後いっとき、ガタ落ちとなる。
僕らの卒業年次の東大合格者数は、都立西高が約100名で、都立富士高が約45名だった。どちらも1学年は420名弱である。凋落傾向の都立高校の中にあって富士高は逆に絶頂期を迎えていた。 優秀な伝統を持つ都立西高と組んだお陰である。
ちなみに、学校群制度以前の都立日比谷高からは、200名近くが東大に合格した。昔、一中→一高→東大というエリートコースがあったが、一高が現在の東大教養学部で、一中が日比谷高校である。昔は中学は5年制で区分としては現在の高等学校にも相当した。
かくいう僕は、まわりの連中のあまりの出来のよさに当てられ、まったく勉強しない高校時代を過ごしてしまった。
かつての富士高生たちは、今でも、「やっぱり西高に入りたかった」という共通の無念を抱えている。富士校同窓会が企画制作した動画で、いい歳をした卒業生たちが、そんな思いを吐露している。
西高は、日比谷高校とならんで、僕ら世代の憧れの高等学校であった。
了
小中学校時代
加山雄三主演の映画「若大将シリーズ」
「莫大小」
僕は、小学校受験、中学校受験を経験しています。
小学校受験では、学芸大附属〇〇小学校に願書を出していたらしいのですが、試験当日に風邪を引き、あえなく不戦敗となりました。ただし、僕にはまったくその自覚がありませんでした。何も知らされていませんでしたから。
中学校受験では、問題集を買い込み、それを解く練習をしました。神奈川県の栄光学園などは、憧れの中学でした。結局、駒場〇〇中学を受験して、不合格となりました。
当時、中学校受験の問題集には、必ずといっていいほど、「莫大小」の読み取りの問題が掲載されていました。正解は、「メリヤス」です。「ばくだいしょう」、ではありません。
真剣に覚えましたが、この漢字の読みが、人生の中で役に立ったことは、ただの一度もありませんでした。いまだに、その出題意図すら分かりません。
気が付くと僕は、テレビ画面の加山雄三を見ては、「ばくだいしょう」 とつぶやくようになっていました(汗)。
了
小倉一純
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