妖怪

奥多摩の山奥に湧き水がある。小さな水源だ。途中、谷戸の苔むす岩肌から水が滴り落ちる。辺りには水蒸気が満ちている。やがて水は小さな流れとなり下流へ下っていく。水は清らかで無垢だ。なんの穢れもない。そして、水はすべての物を内包しようとする。何でも受け入れるのだ。


やがて檜原の界隈に川は差しかかる。この辺りには辛うじて人間が暮らしている。山の斜面に点在する家々からは、谷底を流れる多摩川が見える。その下流を眺めても、景色は開けていない。山また山の向こうに何があるのか、村の人間にも分からない。


その河原に時々、顔を出す妖怪がいた。それが俺だった。俺は元は人里にいた。もっと下流の宿場町で、職人として働いていた。なんの職人だったかはよく覚えていない。だが、俺には抱えきれないほどの出来事があり、正気を失って、雇われているその店を出た。店の前には川があった。俺は裸足でその河原を上流へ上流へと向かって歩いた。どれだけの晩を過ごしたか記憶はない。疲れ果てて河原で眠りこけていると、ざわざわと何か騒がしい。人ではない物の怪の気配がした。


本当なら俺はあの世へ行くところだったのだが、その物の怪らに魂を吹き込まれ、俺は結界に相応しい生き物になった。


やがて季節は秋になる。妖怪といえども喰わねば生きていけない。俺は河原を伝い、下流へ下流へとねぐらを変えた。今は青梅の辺りにいる。川幅は俺が物の怪の魂を得た山奥よりいくぶん広がっている。だが橋はない。里の人間たちは時々、渡し船を使って行き来している。俺はどうもこの場所が気に入った。匂いがするのだ。俺が慣れ親しんだ何かがこの辺りにはある。だが、それが何なのか俺には一向に分からない。分からないけれど、俺は何かを待っている。


俺は結界に暮らしている。それは多摩川の河原と奥深い山との間にある曖昧もことした境目の辺りだ。俺はどうして妖怪にならなければならなかったのか、毎日そのことばかりを考えている。寂しくなると水際まで来て向こう岸を眺める。川の流れる音だけが聞こえている。すべては深い霧の中だ。待てど暮らせど何も起こらない。期待はずれの思いを胸に抱いて俺はまた結界のねぐらへ戻る。


懲りずにまた川岸まで来ていた。何もないことはもう分かっていたから、すぐに帰るつもりだった。だが、その日は違っていた。深い霧の向こうから、ギッチラコウ、ギッチラコウ、という音が聞こえてくる。その音は段々と大きくなり、船のへさきに立つ船頭の姿がぼんやりと見えてきた。船頭は被り笠と蓑を身に付けている。やがて小さな舟がその形を現す。そこには五人の男たちが座っていた。船頭が器用に竿を使い、舟は岸の小さな船着き場へ着いた。


彼らは手に手に酒瓶やら料理の入った折詰を持っている。船頭が敷いたむしろの上で酒宴が始まった。いつしか俺もその輪に加わっていた。よく見ると彼らは皆、俺が人里にいたころの幼馴染だった。次から次へと子供時分の思い出話をした。くだらぬ話ばかりだが、とても愉快だった。酔った俺が川面へ小便を垂れていると、翌年また来ると言い残し、彼らは向こう岸へ帰っていった。


俺にも彼らと一緒に向こう岸へ帰る日が遠からずやって来るのかもしれない。水面に映った俺は、人間の姿をしていた。


季節はめぐってまた春が来ていた。俺は川岸にいる。水は俺の目の前にある。清らかで無垢な流れだ。そして、水はすべての物を内包しようとする。何でも受け入れるのだ。俺はこの水に救われた。


ギッチラコウ、ギッチラコウという音が聞えてくる。その音は段々と大きくなり、舟のへさきに立つ船頭の姿がぼんやりと見えてきた。やがて小さな舟がその姿を現す。そこには船頭のほかに四人の男たちが座っていた。もうひとりいた。女である。川面の水蒸気を伝い、紅の匂いが漂っていた。


「迎えに来たわ」


その女が言った。



小倉一純














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