僕の恩師
最も手前が、伊藤孝一先生。最後列左から2番目が僕。
僕の恩師
この文章は、僕の人生に大きな影響を与えた恩師、伊藤孝一先生に捧げるものである。
先生は、僕がまだ若く迷いが多かったころ、岐阜の山奥の「耕福塾」という学習農園で、寝食をともにしながら、世の中や自分のことを深く考える機会を与えてくれた。
2017年の夏、先生は甲府の病院で静かに息を引き取った。享年84歳だった。歯や足など体のいろいろな部分が衰えていたが、それでも最後の時まで、自分の信念を貫いて、文章を書き続け、自然農法の理念を広める活動をしていた。その姿は、僕にとって、生きることの意味や価値を教えてくれるものだった。
2016年、還暦の節目を迎える前に、僕は自分の人生を振り返ることにした。そのために、自分史という形で、これまでの出来事や思いを綴っていった。その原稿を先生に次々と送り続けた。齢80を超えてもなお、僕の文章に目を通し、手紙で励ましや助言をくれた。甲府の長男夫婦の家で、穏やかに暮らしていた先生は、時々電話をかけてくれ、朗らかな声で、僕の文章や人生についても語ってくれた。それが、最後の交流となってしまった。
先生の幼少期は、大井川鉄道の沿線の茶畑や川沿いの景色を眺めながら過ぎていった。そこは静岡県の山深い場所で、先生の祖母が育ててくれたという。夏の夜は、マムシや他のヘビが道に現れることもあって、恐ろしいものだった。何しろヘビの多い所だったという。井上靖の自伝的小説『しろばんば』にも重なるところがある。井上も、静岡県の天城山中で、自分の祖母に育てられている。先生は、井上靖の作品も愛読していた。
思春期のころに結核に罹ってしまった。それでも終戦から5、6年が過ぎた時、先生は大学に進むことを夢見た。しかし、それは結核という烙印が災いし、次々と打ち砕かれていった。東京の早稲田も慶應も、入学願書を見るや冷たく突き離した。横須賀市にある関東学院だけが、願いを受け入れてくれた。関東学院大学は、キリスト教精神に基づいて、人間の尊厳や平和を重んじる学校だった。そこで、先生は、新しい人生の扉を開いた。
先生には実はもうひとつ隠された悩みがあった。それは、電車に乗ると、いつでもどこでも突然に便意を催すという症状だった。その不安と戦うために、横須賀線の駅という駅の便所の位置をすべて暗記し、便意を感じたらすぐに電車を降りて、用を足せるように心構えをしていたという。病は医学的には「過敏性大腸炎」と呼ばれるものだった。当時は、そんな病名もほとんど知られておらず、世間もその苦悩に寄り添うことはなかった。
先生は、結核と過敏性大腸炎に苦しめられ、一時期は深い絶望の淵に立った。だが、自分を厳しく律し奮い立たせるだけの余力は残していた。
「僕はもう遊びや恋愛なんて考えない。これからは、勉強に打ち込んで、勉強に生きていくのだ。そして神のご意志に従って、世の中のために尽くしていくのだ」
そんな言葉を胸に刻みながら、日々努力を重ねていった。横須賀の同じ教会に通っていた若い女性がその姿に惹かれて彼女の方から結婚を申し込んだ。それが先生の奥様である。
関東学院大学を卒業した後、先生は同じ大学の職員として働き始めた。簿記の知識や技術を生かして、付属高等学校で教鞭をとったこともあった。
やがて50歳の節目を迎えるころ、先生は、関東学院大学・国際交流センター・初代室長に抜てきされた。学生たちの留学の手助けや、海外からの留学生の受け入れやサポートなどを行なう部署である。
先生は英語にも堪能で、多くの国の人々との交流を深めた。室長というのは、大学事務長に次ぐ高い地位である。ハイヤー通勤する特権も与えられたが、そんな贅沢にも興味がなかった。
学者としての肩書きはなかったが、先生は、キリスト教に関する論文を数多く執筆し、大学の機関誌などに発表していた。論文は、キリスト教だけでなく、哲学や社会学の分野にも及んでいて、それは先生の深い洞察力や広い視野を示していた。
多くの友人もいた。有名私大や国立大学で教鞭をとる教育者たちである。僕らのような凡人とは違い、先生の場合、酒を酌み交わし、交友関係を築くというようなことはあまりなかったと思う。第一、先生はほとんど酒を飲まなかった。代わりに、長文の書簡を互いに送り合い、議論を重ね、信条に共感したところで、友の契りを結ぶ。
論文だけでなく、先生は短文にも優れていた。一般的には、随筆やエッセイと呼ばれるものだろう。短文では、文章が活き活きとしており、元気で好奇心旺盛であった。そんな先生の短文は、読む者を明るくし、希望を与えた。
僕たち塾生に「自分の創造力を発揮する」という課題も与えてくれた。それは、絵や文章などをつくり溜め、1冊の本として出版するというものであった。塾生の中には、絵に秀でた者、詩に情熱を注ぐ人、写真に魅せられた奴、僕のように物書きに憧れる輩、いろんな人間が揃っていた。
先生の指導のもと、僕ら塾生は一生懸命に作品を育てあげた。最終的には沼津市の大手印刷会社(図書印刷)に発注して、塾生の手による1冊の本ができあがった。僕たちの夢や希望や感動が詰まった最高傑作をこの世に送り出したのだ。
これが現在の僕の原点となっている。僕は、中学生のころから、物書きになりたいと思っていた。だが、その夢を叶えるために努力したことは、それまで一度もなかった。それが30歳を節目に耕福塾で初めてその第一歩を踏み出すことができた。
先生は、なぜ、そんな山奥に赴いたのか。その理由は、次のようなものである。
親友のために横須賀の自宅を手放した先生は、小さな賃貸で奥様や2人のご子息と質素な暮らしをしていた。そんな暮らしの中で、キリスト教の実践だけでは心の隙間が埋まらない、と感じるようもなっていた。
その時、心にひらめいたイメージがあった。それは、人間の命を育む農作物を自らの手で育てることだった。できることなら、化学肥料に頼らない農業がしたいとも思った。そうすれば、自然との調和を感じられるだろうと。
それなら、自然農法を研究している団体があるではないか。耕福塾とは、その団体が運営する学習農園だった。団体は、指導者としての相応の給料も払うと申し出たが、先生はそれを辞退した。
先生は一介の教育者となったのである。それで僕も先生と会うことができた。
先生の無教会主義だが、提唱したのは内村鑑三である。内村は、新渡戸稲造、宮部金吾、町村金弥らとともに、旧札幌農学校の第2期生である。実はかくいう僕もその後身である北海道大学の卒業生だ。
「小倉やっ、知ってるか?」
「……」
「内村鑑三っていうのは、あんたの母校の卒業生なんだぞっ」
残念ながら、当時の僕はそのことをまったく知らなかった。不勉強の極みであった。
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「耕福塾のイラスト」 メルヘンの童画家・桜井一雄 作
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