断片小説 愚かな叔母

梅雨のある日、北関東に住む義理の叔母から電話があった。彼女の夫つまり私の叔父が、心臓のカテーテル手術を受けることになったという。心臓の血管に血栓ができているというのが医師の診断だ。叔父というのは、母の実弟である。

手術のとき、体内のカテーテルが万が一にでも破損すると、命を落とす危険性もあるのだと説明を受けたらしく、叔母は泣きながら我家に電話をかけてきた。

「あの人はきっと、モルモットにされてるんだわ」


電話口の母にしきりに訴える。私はそんなことはないと思う。叔母の声は大きいから、傍らにいる私の耳にも、否が応でも聞こえる。

叔母の職業は床屋である。細い通りに面した2階建ての1軒家で、1階の半分を店舗として造作し、理髪店を営んでいる。常連以外に利用する客はほとんどいない。

その広くもない通りが、拡幅工事をすることになった。市役所からは、その補償として、代替地への新築を打診されたのだが、叔母とそのひとり娘は、半狂乱となってそれを拒絶した。

その結果、古い家屋は曳家(ひきや)をすることになった。これは、家を油圧ジャッキで少しだけ持ち上げておき、その後で、横方向へ移動させるという、日本古来の移築法である。

その作業も無事に済み、叔母夫婦は現在、拡幅した道路の際まで曳(ひ)いた元の家で暮らしている。だが、ドアが締まらない、窓にすき間ができたといって、叔母は大いに嘆いている。

そんなことは当たり前である。古い家を曳けば、こうなることは火を見るよりも明らかだ。新築にしなさいと、叔父は口が酸っぱくなるほど説得したらしい。ああ見えても叔父は、大学の工学部を卒業している。叔母とその娘は、叔母の父親が建てた家なのだから、取り壊すなんて絶対に反対だと、最後まで抵抗した。

叔母は愚かである。

娘は、人に対して、積極的に物をいうタイプの人間ではなかった。なぜだか自分を主張できないのである。その娘が、毎日毎日、自分のお乳を気にして、鏡の前で悩んでいた。

叔母は、叔父とは再婚である。娘は叔母の連れ子なのだ。血のつながりのない娘だが、お乳をいじって悩んでいる姿を見て叔父は、

「それ、病院で診てもらいなぁー。乳ガンだったら大変だろうに」

彼女の背中を押して、病院へ連れて行った。

結果は手遅れだった。この世に思い残すこともあっただろうに、彼女は、あれよあれよという間に逝ってしまった。本当は、同じ女性である母親が、もっと早く気づいてあげるべきだった。この娘は、本当に、人に物をいえない性格なのである。心配事があっても、親にも打ち明けられないのだ。

当の叔母だが、何を勘違いしたのか、いまは娘の担当だったドクターを憎んでいる。そのドクターのせいで彼女が死んだというのだ。これでは、憎まれるドクターも堪らない。

そんな叔母はもうじき七十七歳の喜寿を迎える。梅雨明けの灼熱の太陽が、彼女の割り切れぬ想いを、燃やし尽くしてはくれぬのだろうか。

叔母は、毎年夏になると、地元で獲れる自然卵を買って、段ボール箱で送ってくれる。ぷくっとして赤みがかった黄身の、栄養価の高い新鮮な卵である。私たち家族には、何よりの届け物なのだ。こちらが忘れていても、卵は毎年必ず届く。

夕立の上がった日暮れどき、リビングで電話が鳴る。母が出ると、受話器からは元気のよい声が聞えてくる。

「あの人の心臓の手術なんだけどぉー、無事に済んだんですよ。それでお義姉さん、きのう、そっちに、卵送ったんですけど」

律儀な叔母である。 

小倉一純



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