純文学の日はまた昇る
純文学が華やかなりし頃、その作家と呼ばれる人たちはいわゆるインテリでした。物事のプリンシプル、つまり原理原則を分かった人たちです。夏目漱石や森鴎外、もう少し新しいところでは川端康成など、優秀な学校歴、学歴を持った作家たちも多くいます。
一方、民衆にはまだまだ無学な人も多くいました。そんな中、インテリと呼ばれる人たちは、世の中のオピニオンリーダー的な存在だったのです。プリンシプルをわきまえていれば、その枝葉である各論へも自ずと通ずる、ということがあったからです。大元のところの考え方を理解していれば、現実の枝葉の部分も、こうあるべきだと自然と分かるという意味です。ですから、市井(しせい)の民が何かで困った時には、横丁には、頼るべきインテリの先生が存在していたのです。
ところが今は違います。たとえば現在のグローバリゼーションということを理解するのに、総論では理解できないですよね。各人がパソコンなどの通信手段を持ち、SNSも駆使して、情報が一瞬で世界を駆け巡る、つまり瞬時に情報共有できてしまうところにグローバリゼーションというものがあるわけですよね。もちろんそれだけではないですが。
投資の世界でも、今はボラリティーが大きいでしょ。値動きの幅がでかいということです。乱高下とも訳せます。素人投資家には難儀な時代となっています。逆に言えば、買いと売りのタイミングを読めれば、右肩上がりの時代を終えた今でも、儲けるチャンスはまだまだある、ということです。理論的には、です。ですがその読みは難しいですよね。グローバリゼーションのお陰で、一瞬にして相場も変わるからです。
このグローバリゼーションというのは、人の個々の動きが集約されて総体としての傾向となる、という態(てい)ですよね。つまり、各論から総論へ、という方向性で見ていかないと、その本質には迫れない、ということなんです。もう昔の、横丁のみんなから頼りにされたインテリでは太刀打ちできないのです。時代の流れは、各論から総論へ、という考え方を我々に要求しています。
紙文化が勢いを失くし活字離れが進んだ、ということとはまた別に、こういう思想の質の変容により、純文学というものも、時代の陽の目を浴びなくなってきていることは事実です。芥川賞作家の西村賢太っていますでしょう。ちょっとアウトローな感じのする作家さんです。「先生のご本を読んで、どんなことが得られますか」とインタビュアーに聞かれた時、「得るもんなんて、何もありませんよ」と言い切ってしまっています。今の文学を象徴するような話であると僕は思いました。
少なくとも僕が若かった頃の文学とは違います。僕が愛した白樺派の小説なども、読めばそれなりのものを得ることが出来ました。人生に悩んでいると、小説を読んでみろ、と大人も言いました。それが今や、芥川賞作家自身が「何もないですよ」と言い切ってしまうような時代なのです。
いわゆる純文学やその作家は、総論から各論へという方向性がひとつの意味を持っていたころの、オピニオンリーダーなのです。各論から総論へという、個別の知識を身に付けていないと物事の本質へ迫れない現在には、その役目を果たせないでいる、というのは事実なのです。
ですが、ですがなんですよ。個別の科学技術論は重要だが、アート、音楽、哲学、文学のようなアナログで総論的なものが、そういうものの価値観、考え方が、時代の更なる革新においては、必要になってくるのです。
今、世の中は理科系時代ですよね。文科系廃止論みたいな風潮になっています。文系学部の大幅縮小みたいなことになっていますよね。国公立大学の文系学部の教員たちも、こういう現状にブーブー文句を言っています。もちろん自分たちの生活のこともあるでしょうが、学問的な正当性のことを、彼らは言いたいのです。こういう文系学部の分野を評価しないのは間違いである、と言いたいのです。
こういう分野にこそ、もっともっと大きな、時代の本質的な飛躍を促す、物の考え方が隠れているのです。つまり、個々の優れた各論的要素群を有機的に結び付けて、より人類に役に立つ形で再配置もしていくときの、核となるような何か、牽引的存在となる何かは、各論にではなく、こういうアート、哲学、文学のアナログな総論的な物の中から、それが生まれて来るのです。
ですから僕は、もう1度、従来の文学が時代の陽の目を見る時が来ると言いたいのです。というか、そうでなければならないと思うのです。滅びゆく文学に、懐古趣味でしがみついているわけではないのです。第2の人生で、することもないので、文学をやっているわけではないのです。来たるべく時代の要請に応える為に、日々爪を研いでいるのです。引いては、時代を引っぱる草の根の1本にもなろう、と僕は考えているのです。そういうことを僕は、言いたかったのです。
2021.12.29改題再UP
小倉一純
了
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