野坂昭如と青木君

 都内にある青木君の実家の隣りが、かつての野坂昭如邸だった。夫人の趣味であろうか――、野坂氏には似つかわしくない、オシャレな外観の邸宅である。

 野坂昭如はご存じの通り、直木賞作家だ。受賞作は「火垂るの墓」である。14歳の兄と4歳の妹が、戦前戦後の混乱期を必死で生きようとするが、食べる物もなく、思いかなわず亡くなっていく姿を描いた作品である。直木賞受賞前、文壇には野坂氏を馬鹿にする人もいた。外で飲んでいた野坂氏は、自分の悪口を聞かされて、怒り心頭に発していた。自宅へ帰るなり、酔いの力も借りて、たった一晩で、この作品を書き上げたそうである。心の中で長いこと温めていた題材だったので、野坂氏の頭の中では、すでに作品は出来上がっていたのだろうと思う。早速見せたところ、一読を終えた編集者は、野坂氏の受賞を確信したそうである。私がお世話になっている同人の大御所、佐藤愛子先生の、「戦いすんで日が暮れて」の直木賞受賞のエピソードとも、相通じるところがあるように思う。

 クラスは違うが、青木君とは都立高校の同級生だった。2人とも大学受験に失敗し、代々木駅前の予備校へ通っていた。帰り道2人で飲んでべろべろになり、私は青木君の実家に泊まった。お母さまからは大ひんしゅくを買い、小倉のような酒飲みの友人とは2度とつき合うな、と怒られたそうである。だが彼も酒は嫌いではなかった。若い叔父さんが自宅へ遊びに来た時、彼はビールの大瓶4本をひとりで空け、翌日、いやぁ酔った酔ったと臭い息で予備校に来ていた。胃がシクシクするといい、ライスお替りし放題の、予備校の地下の学生食堂で、知らない奴から皿を借り、シェフに飯を盛ってもらい、塩をぶっかけて喰っていた。これではまるで、腹を減らした旅の渡世人である。面白い奴だなぁ、と思った。

 彼の父親は大手ゼネコンに勤めるサラリーマンだった。ウチの親父はどんなに2日酔いでも、絶対会社へ行く。当時青木君がいっていた。彼はそういう父親の背中を見て育ったのだろう。そんな青木君は、私と同じ2浪の末、横浜の国立大学に進み、システム関連の会社に入った。社会人になってからは会ったことはないが、きっと立派なサラリーマン生活を送ったことだろうと思う。今年、2人とも還暦を迎えた。

 青木君の家は、玄関の三和土(たたき)が大理石張りになっている。さすがはゼネコン勤めの家だけのことはある。泥酔してお宅へ伺った時、私はその大理石をコンコンと指の節で叩き、

「立派な造りですね」

 と連発していたのを覚えている。子供だったが、私は建築に興味があった。

「はいはい、分かった分かった」

 お母さまは呆れ顔だった。

 そんな青木君の実家の右隣りにあったのが、野坂昭如氏の邸宅である。そのお宅は、深紅のレンガが随所にあしらわれた洋風の作りだった。チューリップの似合う雰囲気である。間口は青木君の実家の倍ほどもあった。

「青木、隣の野坂昭如と口利いたことあるのか?」

 私が聞くと、

「おう、1度だけっ」

「なんか、少し変わった人だったけどな……」

 彼がいったのを覚えている。  了


2019/02/05

小倉一純


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