憧れの遠藤周作

 私が、作家に憧れを抱いたのは、中学生の頃だった。遠藤周作のユーモア小説集、ぐうたらシリーズなどを愛読するようになった時からである。「真夜中になると私は、ウイスキーを口に含む。むろん酔わない程度にである。連日の徹夜仕事の疲れを、誤魔化すのが目的だ……」(先生の文章を思い出しつつ書いた、私の創作)、という先生の、作家としての一挙手一投足をカッコイイと思ったものである。

 当時、違いの分かる男・ゴールドブレンドというインスタント・コーヒーのコマーシャルが、テレビで流れていた。小田急線の柿生の里の、狐狸庵の庭で、執筆の合間に愛犬と戯れる先生が映し出されていた。その白い中型犬は、失礼ながら、いかにも駄犬という風情の雑種である。でも、それがまた、先生の人柄を引き立てる役目を果たしていた。

 今は半ば死語であるが、私は、「インテリ」という言葉が好きだった。その言葉を体現している存在が、まさに遠藤周作のような作家だったのである。とにかく勉強していて、物事の本質論を語る。それを文章に書き、本も出版される。時折テレビに出ると、少し照れながら、「いやー、あれはね、そういうつもりで書いたんではないんですよ」といって頭をかく。サラリーマンの倅であった私は、そういう作家を憧憬の眼差しで見つめていた。 

 さりとて私には、父親の後を継いで、サラリーマンになることぐらいしか思いつかなかった。父親もまた、それを望んでいた。蛙の子は蛙、という訳である。当時は、パソコンやインターネットもない。知らない世界の事を知りたければ、直接そこへ電話するか、その道の人物を直に訪ねて頭を下げる位しかなかった、と思う。辛うじて「情報源」なる本も出ていたが、文筆関係であれば、出版社や新聞社などの連絡先が、一覧となって印刷されているだけである。結局、意を決して、その世界へ飛び込んで見なければ、先のことは分からないのである。本質的には、今も変わらないのかも知れないが、当時の私には、とてもそんな勇気はなかった。

 果せるかな私は、サラリーマンとなった。成り行きで鉄鋼業界に入った。成り行きで身体をこわし、成り行きで早期退職をした。40代の頃である。気が付くと、成り行きで、私は50代後半になっていた。高齢の両親の面倒をみながら暮らしているのであるが、それも成り行きである。偉いと褒められるようなことではない。そんな自分の人生を振り返り、私は、忸怩たる思いに駆られるようになっていた。便利になったインターネットでその方面を探してみた。その方面? もちろん私がインテリになる道である。還暦を目前にして作家になろうと、ついに漠然と、思い込んでしまったのである。 

 ある同人の公募へ作品を書いて出した。2年続けて奨励賞というのをいただくことができた。これから妻子を養っていこう、という訳でもない私は、その道へ飛び込んだ。今年還暦を迎えた私は、憧れたその道のスタートラインへ、とうとう立つことができたのである。40年以上もの歳月を経て、やっと想いの一端をつかんだのだ。思えばずいぶん長い道のりだった。これからの道もまた、長いのだろうと思う。とにかく歩いて、我が足跡を道に刻んでいきたい。  了


2019/01/31

小倉一純


 遠藤正介の死後に、電電公社の有志によって上梓された『遠藤正介』(非売品)という本がある。遠藤正介というのは遠藤周作の実兄で、電電公社の総務理事にまでなった人物である。電電公社では、総裁、副総裁、技師長、総務理事というヒエラルヒーになっていた。技師長は理科系のトップであり、総務理事は文科系のトップであった。技師長の方が上なのは、電電公社は技術系の組織という位置付けであったからだ、と思う。

 この本は、亡くなった遠藤正介自身の文章や、多くの人々から寄せられた追悼文などで構成されている。その中に、遠藤正介が、弟・遠藤周作のことを綴った「我が愚弟を語る」というエッセイがある。面白い話だったので、筆写した。


我が愚弟を語る(by遠藤正介)

 僕と周作は二つ違いの二人兄弟である。テレビなどで弟を見た人はよく間違えるが、本当は僕のほうが兄である。逆に見られる最大の理由は彼のほうが毛が薄いせいであるが、弟もそれを気にしているようで、高校生諸君で作られている「遠藤先生を禿増す会」などは敬遠しているらしい。

 一事が万事、五十年を越す人生経験はもちろん、性格もずいぶん違っている。たとえば僕は綺麗好きで時間も正確だし要領も悪くないし、気がきくほうだと自認しているが、弟のほうは子供の頃から風呂嫌いで鼻水を洋服の袖でふくものだから、いつもその部分がピカピカ光ってい、脂性の顔をよく洗わぬせいかニキビがなかなか治らず、死んだ母親が歎いていたとおり「蚊止るパチン、プーン」の痕穴(こんけつ)が顔にいくつも残っている(注・テレビではわからない。彼は丹念にドーランでその穴を埋めて出演しているらしい)。

 時間の観念は昔から無いに等しく、きめた時間に間に合ったためしがない。最近では義妹(つまり周作の女房)がしっかりしているので、そんなことはないらしいが、前には約束の時間はおろか月日まで間違えることも珍しくなかった。

 要領はきわめて悪い。もっとも、人間がそれだけ正直だということでもある。僕たちの子供の頃は今のように読み物が多くはなく、また子供の読むものは親と先生の厳重な管制下におかれていた。講談社から出していた八大雑誌の中で少年倶楽部、少女倶楽部は子供のもの、それ以外は大人の読み物ときまっていた。小島政二郎の小説や菊池寛の「真珠夫人」などは見ていただけで大目玉を食ったものだ。しかるに僕は大ていそれらを読んでいた。それも弟に友達から借りて来させてである。親が二階に上って来ると僕は急いで教科書とすりかえる。弟は要領が悪く動作が鈍いから、たいてい見つかって怒られていた。真犯人は僕なのだが怒られるのはいつも弟だった。僕は今でもそのことに一種の罪悪感をもっている。だから罪滅しの意味で、最近では僕が肴になって弟を良く見せようと努力しているのである。弟もそのことをよく覚えていると見えて「僕の兄貴はたいへんな秀才でして」などといっては僕の顔をジロリと見る。秀才というのがいかに要領よく人に罪を負わせたかといいたげな皮肉な笑顔に、私は脅かされているのである。

 そんな両極端の性格だから、私は学校へ上がる前に漢字を覚え、弟は大作家になってからでも札幌を「フダホロ」などと読んで恥をかいたりする。小学校六年間、私は全甲で総代級長をつとめたが、弟は家鴨の列(全乙)で甲は作文だけ。運動会はビリで、学校の先生には当時早くも「問題児」のレッテルを貼られていた。学校にいったはずの弟が学校には来ていない。大騒ぎの家に夕方、弁当だけは食って帰って来る。きけば、途中で「虫を見ていた」とか「捨て犬と遊んでいた」とかいうので、馬鹿か低能かということになるのは当然だった。

 僕が大連一中一年の時に、家庭の事情で二人とも神戸に帰って来た。学期途中だったので、その頃できたばかりの私立灘中学校に僕は転入し、弟は六甲小学校に移った。灘中学は今の灘高の前身だが、当時はデキのいい生徒は神戸一中(現神戸高)とか二中(現兵庫高)にいって、灘中には阪神間の金持ちのボンボンがやむなく集まっていた。司会業をやっている大久保伶君とか、俳人タレント(と称する)楠本憲吉君などが、当時の灘中の代表的人物であった。だから僕などは泥中の蓮の如しで、開校以来の秀才といわれたのも、面はゆいが当然のことであった。

 二年遅れて弟が入って来たときも、校長以下、僕の弟だから当然秀才が入って来たものと、双手を挙げて喜んだものだ。

 灘中では、毎年四月初めにクラス替えをやる。前年の成績によって上位から五十人ずつA・B・C・D順に四組に分けるというくだらぬことを、当時は厳粛に行ったのである。無論、僕は、四年修了で一高に入るまで終始A組であった。弟も初年度は前記の理由でA組に入った。遠藤兄弟という先生の紹介まで行われた。二年目にはB組に編入され、三年目にはC、四年目にはD組と確実に落下し、秀才遠藤兄弟の栄誉は空しく消えた。(それがどうだ。今日、灘中同窓会ではまったく逆の現象で、諸先生は弟に蝟集(いしゅう)し、僕はD組的扱いに甘んじている。ああ)

 このようにして弟は「君とは種子(たね)が違うんじゃないか」と不謹慎なことをいう先生がいるくらいのD組生徒と化したが、決して不良学生ではなかった。最近の「ぐうたら」物などを読むと、彼はその頃、近くの女学生の尻を追い廻していたようなことを書いているが、それは単なる願望的回顧譚にすぎぬのであって、薄汚い、成績の悪い上眼づかいの少年に目をむける女学生など戦前には独りもいなかったのである。従って彼は軟派不良になり得なかったし、ヒョロヒョロしていたから、もちろん硬派でもなかった。要するに彼は、戦前の体制になじまない問題児であったのである。そしてかれはそれを自覚し懸命の努力をしたのであるが、彼の素質は本質的にそれを不可能にした。さればこそ価値観が大きく変わり、体制の本質が一八〇度転換した戦後になって、彼は水を得た魚のように文壇に躍り出たのである。

 その点、僕は旧体制時代に本質的に順応したにすぎない。この雑誌に寄稿を依頼されるにあたり、僕ははしなくも四十年近く前の赤尾好夫社主(現社長)と旺文社(戦前、旺文社は欧文社と称していた、編集部注)を思い出し、その頃の「受験旬報」(「蛍雪時代」の前身)の保存版を見せてもらった。毎号の巻末に、添削試験の結果が発表されているが、その名簿を見ただけでも懐かしい。一昨年まで労働次官をしていた松永正男氏や、読売新聞の論説主幹の樋口弘其氏をはじめ、官僚、財界、時に政界のお歴々の若かりし受験時代の憶い出が、そこに刻まれている。その中に僕の名前も散見された。何しろ、欧文社は当時の受験生で知らぬものはなく、赤尾社主の短文は少年の向学心をいやが上にも励ましたものだ。

 周作の本質は、このようなものとは全く異質のものであり、彼の才能はこのような社会ではまったく無価値に等しかったのであるが、彼は懸命に体制の中へ入りこもうと努力した。その点では彼はグレたり非行化したりするほどの弱虫ではなかった。多くの読者諸君は想像できぬかもしれぬが、彼は机の前に「必勝」「断乎突破」などという自筆のビラを貼りつけ、その頃の著名な受験参考書である小野圭の「英文解釈」や星野の「チャート式代数学」などに赤青の線を縦横に引き、毎晩遅くまで部屋にとじこもっていた。しかし、彼の頭脳と能力はその頃の四大科目(国語・英語・代数・幾何)とはまったく別の世界のものだったらしく、彼の名前は、かの「受験旬報」の入賞者欄に一度も掲げられてはいない。

 しかし彼は今でもそうであるように、当時から常に目標を定め、それに向ってまい進しつづけた。僕が四年から一高に入ったことに刺戟されて、彼は四年D組の夏休みに突如として「三高を受ける」と内外に公言しはじめた。当時の三高は天下の難関校といわれ、灘中からも一人か二人しか入ったことがなく、いわんや欧文社でも問題にされないD組の問題児がそんな宣言をしたところで、周囲は少しも信用せぬどころか、冷笑の的にさえされるのは当然であろう。僕は必至になって何とか思いとどまらせようと説得したが、彼は「バテレン」のように意志をまげなかった。

 三月の寒い日、僕と弟は比叡颪の吹きすさぶ吉田山の三高(現京都大学)へ出かけていった。「しっかりやって来いよ」と僕は励まし、弟も「うん」と緊張でやや蒼ざめた顔をうなずいて試験場へ姿を消した。三時間たって受験生がどっと校庭へ出て来る。その中でひときわ元気のよい弟の姿を発見した僕はホッとした。「どうだった」「うん、出来たよ。案外簡単な問題やった」「本当かい」「本当さ。勉強しとったヤマが当たったんや」。僕はやはり弟はやったと思った。「灘中の奴、驚くやろうな」「しかし、まだ二次試験があるからな」。僕はとりあえず電報をうった。

 一週間たっても一次合格の通知は届かず、一時は浮き足立って喜んだ周囲も、当然のことのようにあきらめてしまった。次の年、彼は再度三高を受験し、同じように朗らかに「出来た。出来た」と出て来たが、僕は電報代が無駄になるのを恐れて打たなかった。

 三年目、彼は広島高校を受けた。無論、僕もついていったが、彼が受験場から出て来るとそのまま、宮島見物をして帰った。その頃僕はすでに大学を卒業し、就職もきまっていたが、卒業と同時に戦地へいったので、その次の年彼が姫路高校をうけて、またまた失敗したことは手紙で知った。 

 彼はその長い浪人生活の末、慶応の仏文科に入って終戦を迎え、その後のことはおそらく読者もご存知のとおりである。

 しかし今にして思うと、彼は真剣に旧制高等学校を目指していたのである。その努力はそれ自体として実らなかったけれども、戦後彼の才能が受け入れられる時代になって、彼が飛躍するための土台となったことも事実だと思う。彼は決して偶然とラッキーのみで今日の地位を獲たものでないことを、兄の僕は断言できる。

 次の手紙は、彼が苦しい浪人時代に僕にくれたものである。今日の狐狸庵こと、ぐうたら先生からは想像もできない書翰の一節を再掲して、読者諸君の参考にしたいと思う。

『昨日お手紙拝受。受封しました時は聊か嫌な気持が致し、暫時机上において逡巡致しました。

拝読後御注言身に浸み全く慚愧(ざんき)後悔致し、後半日を反省致しました。皆、小生の意志薄弱に依る物なる事と熟考致しました。(中略)

考えてゐるうちに僕は昨年唯一人で二階にこもり、一人で勉強し、一人で散歩をし、満足と充実した心で外界と離れていた受験生活が懐かしくなり、烈しい慚愧に苦しみました。

此の上は多言を要せず、唯今後再び清純な生活へたちかえへり、昨年以上の努力を以て猛勉し、交際を断じ来春の輝しい成果をお見せする覚悟です。どうぞもう御安心下さい。

此の後は如何なる誘惑、万難をも廃する決意はつきましたから。(後略) 敬具

周 作                                  

兄上様』

日付けは昭和十六年、彼十八(一浪中)の時のものである。

(総務理事・「高二時代」昭和五十年七月号)


0コメント

  • 1000 / 1000