先週の私と、これから
2016年の私は、自分の脆弱なる存在に危機感を感じて、自分史づくりを始めた。雑感も含めて書き、PDFにまとめて、インターネット上にもアップした。なぜそうするかといえば、やはり本音は、人に見てもらいたい、共感してもらいたい、ということなのだろう、と今にして思う。
アクセス数はゼロだった。文章を刷って人にも渡したが、意図を理解してくれる人も、多くはなかったと思う。努力はすれど報われず、すべてが徒労に終わった感があった。書いても書いても見向きもされない、という状況にはなかなか辛いものがあった。
偶然だが、一昨年、随筆春秋と出会うことができた。そして今回、こうして発表の場を持つに至った。リニューアルしたこのホームページのことである。先週の私は、新しい玩具を得た子供の様に嬉々として、そこへ並べる作品を吟味していた。
ここだけの話だが――、私は、物を書くというのは、芸術であると思っている。文章により、言葉を超越した美の世界を描く。とても崇高な事だ。だが私は、そこに物語が必要である、つまりストーリーを考えなければならないということを、全く自分に含んでいなかった。笑ってしまう。ストーリーを書いてこその作家なのである。
ただ、生意気を言わせてもらえば、私には書きたい事がたくさんあるように思う。30代となってからは、身体をこわして半健康となり(40代に入るまでサラリーマンを続けた)、私は自分だけを見つめて生きて来た。そんな私の中には潜在的に、語りたい世界がたくさんあるのだ。それを上手く取り出すことが出来れば、物語はいくらでもあるように思うのである。それに、ひとつの些細な出来事であっても、切り口を変えれば何通りもの違う話となるのだ。そう考えると、人生が終わるまでにすべてを書けるだろうか、ということの方が心配になってくる。
今は、その話を掘り起こすための手練手管を学ぶべき時なのだ、と思っている。随筆春秋に入会してから、それを勉強しているのである。 了
2019/02/11
小倉一純
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