スリリングな津久井湖
昨年末、母が心臓のペースメーカーで身体障がい者1級を取得した。これには数々の恩典がある。新年度ごとにタクシー券をもらえる。ETCの支払いが半額になる。自動車税4万5千円(年間)が無料になる。ほかにもまだまだある。だが、すべてが申請主義である。外出に限りない苦痛を感じる私には、目も眩むような作業の連続なのである。
統合失調症はこの30年間、私を目に見えない座敷牢へつないできた。今日は無理をして、自動車税の減免の手続きに出向いたのである。県内であれば、どこの事務所でもよいのだ。溝の口あたりの事務所が最寄なのだが、そこは駐車が数台である。道路も狭く、車で行くには恐ろしく不便なところなのだ。私は公共交通には乗れない。調べてみると神奈川県全域にあるのだが、結局、津久井湖畔の事務所へ行くことにした。両親を暫くドライブに連れて行かなかった反省の意も込めて、そこに決めたのである。
50年以上は経ったと思われる鉄筋4階建ての事務所がそこにあった。建物のすぐ北側には津久井湖が見える。冬の澄んだ空気の向こうに穏やかなブルーの湖面が広がっている。一瞬、社会科で習ったスイスの湖を連想した。反対側の山には家が建っている。所長と思しき人が座る背後の窓ガラス越しに、マッチ箱のような家々が山の斜面の上の方にまで連なっているのが見える。私は両親と一緒に事務所の中にいた。
出て来たのは若い女性である。20代後半だろうか。切れ長の目が女優の石田ゆり子を思わせる。少しだけ露出している頬が、輝いている。カーディガンの袖をのばして手の甲を半分隠すその仕草が、いかにも若い女性らしい。彼女はマスクをしていた。顔の半分が隠れていることで、私の妄想力はさらに掻き立てられていた。
要点を伝える時にだけ、彼女は、真剣な眼差しでこちらを見つめる。予期しない福音に心を滾(たぎ)らせた私は、その視線を遡(さかのぼ)り、彼女の瞳を見つめ返す。
――スリリングな瞬間だ!
座敷牢の私には、外界で目にするもの、特に女性は、そのすべてが刺激的なのである。 了
2019/02/14
小倉一純
津久井湖
津久井の酒屋
津久井湖といえば、私の場合は「久保田酒造」なのである。平井橋という橋のたもとに酒蔵がある。母屋の軒を潜ると、そこで酒を販売している。壁に掛けてある小物、向こうの座敷に置いてある家具など、すべてが本物のレトロだ。その酒蔵も近い津久井の街に、酒屋がある。そこでは久保田酒造の酒粕もおいている。酒蔵の近くの酒屋はグッドなのだ。そこで、相模灘純米吟醸720ml(四合瓶 / しごうびん)を2本、酒粕2袋、甘酒2カップを購入した。〆て5000円也である。
先日、泥棒に入られたSさん――こう書くと情けないようだが、Sさんは京都大学卒、石油元売りの重役さんだった、その証拠に、毎晩、軽トラの豆腐屋さんでお揚げさんを買われる――が道路端を掃いているのを見た時、私はその背中にふと、言うに言われぬ孤独の影を見てしまった。津久井の街で酒屋を目にした時、とっさにその事が頭を過った。
母は店に入るなりトイレを借りた。父は、オブジェの展示のようになっている、幾種類ものつまみの袋を弄(いじ)りたおし、ホタテの燻製を店の三和土に落としそうになっていた。すんでの所でそれを押さえた私は、
「親父、また何、触ってるんだよ!」
大声でいうと、
「いやー、ここは随分酒が置いてあるんだなー、と思ってさ」
明後日の方を向いて言っている。
「酒屋なんだから、酒を売ってるのは、当たり前だよ」
ことさら大声で言うと、ちょんまげを結って日焼けしたご主人と、ちょっと色っぽい感じの奥さんの中年夫婦が、愛想笑いをしてくれた。ほっとした私は、対面で買物をするのが苦手だから、帳場からは出来るだけ離れたところで、財布を握っていた。
圏央道という東名と中央をつなぐ高速に乗り、府中スマートインターを出て是政(これまさ)橋で多摩川を渡ると、20分で我家へ到着だ。車を止めて両親を降ろした私は、エンジンもかけっぱなしで、お向かいのSさんのインターホンを鳴らした。
「どちら様ですか」
「お向かいの小倉です」
Sさんは耳が少し遠いので、私はいつもより大きな声を出していた。他はまだまだ元気なSさんだが、80をとうに越えた顔には、人生の深い皺が刻み込まれている。私は余計なこと(泥棒の一件)は言うまいと思った。
「津久井湖の酒蔵でおいしいお酒を買って来ました」
「旨い酒ですから冷やでやって下さい」
その途端Sさんの相好が崩れた。Sさんは結構のん兵衛である。ビン・缶・ペットボトル・使用済み乾電池の日に、ブルーのプラスチックの籠を覗くと、Sさんがたくさん、ワインの瓶を出している。
「ああ、こりゃー、どうも有り難う」
Sさんは、有り難うございますとは言わない。言えないのである。重役さんだった頃の口調が板について剥がれないのだ。だが悪い人ではない。気短かの怒りっぽい気性の中にも、時折、情のある表情を覗かせる。嫌いではない。
おっと忘れていた。お隣のTさんに先日のおでんのお返しの、酒粕、を持って行かないとっ! 了
2019/02/15
小倉一純
津久井湖の近く「久保田酒造」。相模灘はかなり旨い!
近藤健 先生
先年、随筆春秋の近藤健先生は、30年近い東京生活を仕舞われ、故郷の町のある北海道へ戻られた。大手石油販売会社の本社を離れて、現在はその札幌支店に勤務されている。ご家庭の事情で転勤願いを出していたのだ。近藤健先生は、会社員と文筆家の二足の草鞋を履いた、サラリーマン作家である。
一昨年縁あって、随筆春秋の同人となることを許された私は、10編近い作品を札幌の近藤先生に添削していただいた。「よく書けています!」と寸評があるものの、原稿をめくるとそこかしこに朱が入っている。努力して勉強していくうちに、赤ペンの個所だんだん少なくなっていき、私にとってそれが何よりの励みとなった。
近藤先生のSNSを盗み見ると酒はお嫌いではないようである。ご自宅近くのスナックへもおひとりで出かけるらしい。スナックの小窓から見える豪雪の札幌……。
その近藤先生が師匠と仰ぐのが、同人誌 随筆春秋の大御所でもある、作家の佐藤愛子先生である。
近藤健先生 作品集「Coffee Break 別邸」https://ameblo.jp/j7917400/
2019/02/15
小倉一純
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2019.02.17 11:41