先生たちも間違う
中学の時のことである。教科書に「太郎兵衛」という表記があった。私が「たろべえ」と読んだところ、先生は「たろうべい」と直した。私と先生はそれからお互いに譲らず、とうとう3か月が経った頃に、「たろべい」でも正解だと先生がいった。つまり、どちらも正しかったのである。私は教科書傍用の「あんちょこ」という奴を持っていたので、自信はあったのだが。
小学校5年の時である。国語の教科書に「フランダースの犬」が出ていた。そこに「……凍え死んでしまった」という文章がある。私が「ここえじんでしまった」と読むと、先生は大笑いした。クラスの皆を味方につけて、それは「ここえしんでしまった」であると譲らないのである。収まりのつかない私は、正解を求めてNHKの放送センターへ電話をかけてみた。どちらの読みも正しいが、「こごえじんでしまった」の方が一般的であるという答えを得た。私はそのことを告げ、先生を凹ませた。
小学校3年の時だった。私が作文で「お母さんがおやすみなさい、と言った」と書いたら、「と言った」というのはいかにもおかしい、というのである。なぜ「言った」の直前に「と」が付くのか、となおも先生は食い下がる。正解は、「お母さんがおやすみなさいと、言った」であるという。日本語の文章としてどちらが正しいのか、私にはいまだに分からない。近ごろ私は、大作家の本を筆写している。そこでまず最初に確かめたのが、この表現だった。大作家はほとんどの場合「、と言った」と書いている。私の中では、これを正解とすることにした。
実は、私にはずっと我慢していることがある。大先輩の文章を拝見すると、いつも「そのとうり」(その通り)と書いている。今の語法では「そのとおり」が正しいはずである。少しだけ調べたが、「とうり」を正当化する考え方は見当たらなかった。だが、大先輩の年代の国語には、今の若輩には及びもつかない、語源にまつわる様々なセオリーもある。きっと大先輩は、「とうり」を、信念を持って使っているのだ。新参者が突っ込みを入れると、それこそ取り返しのつかない事態にはなりはしないか、と私は、自分自身に箝口令(かんこうれい / 黙っていること)を敷いているのである。
私は小学生の時、質問魔と呼ばれていた。授業中に手を挙げては、「なぜ」「なぜ」といっていたからである。幸いにも、かの発明王トーマス・エジソンのように、小学校を首になることはなかった。中学も無事に卒業し、私は晴れて高校生となることができた。 了
2019/02/16
小倉一純
近藤健 先生
先年、随筆春秋の近藤健先生は、30年近い東京生活を仕舞われ、故郷の町のある北海道へ戻られた。大手石油販売会社の本社を離れて、現在はその札幌支店に勤務されている。ご家庭の事情で転勤願いを出していたのだ。近藤健先生は、会社員と文筆家の二足の草鞋を履いた、サラリーマン作家である。
一昨年縁あって、随筆春秋の同人となることを許された私は、10編近い作品を札幌の近藤先生に添削していただいた。「よく書けています!」と寸評があるものの、原稿をめくるとそこかしこに朱が入っている。努力して勉強していくうちに、赤ペンの個所だんだん少なくなっていき、私にとってそれが何よりの励みとなった。
近藤先生は、襟裳岬もそう遠くない様似町のご出身である。高校時代は単身札幌へ出て、市内のミッションスクールの学園寮で青春を謳歌された。
その近藤先生が師匠と仰ぐのが、同人誌 随筆春秋の大御所でもある、作家の佐藤愛子先生である。
近藤健先生 作品集「Coffee Break 別邸」https://ameblo.jp/j7917400/
2019/02/16
小倉一純
0コメント