兵衛・ひょうえ

 あの忠臣蔵で有名な、堀部安兵衛は、「ほりべ・やすびょうえ」と読むのが正式だそうである。そもそもは、律令制下で、皇居の警護や天皇の身辺の護衛などを行った者を指す官職名が、「兵衛」(ひょうえ)なのである。それが、江戸時代の近松門左衛門の頃から変化して、「べえ」とも読まれるようになった。今の我々の耳には、「ほりべ・やすべえ」の方が馴染みがある。因みに、大正時代の総理大臣・山本権兵衛は、元来は「やまもと・ごんべい」であるが、公称では「やまもと・ごんのひょうえ」としていた。

 そういえば、私の中学3年の時の担任が「醍醐兵衛」である。「だいごべい」ではなく、「だいごひょうえ」先生という。大学の農芸化学を卒業して、理科の第2分野・生物を担当していた。相当な呑ん兵衛で、大衆居酒屋のモツ煮込みなどを特に好んだ。石神井公園の水面の畔の小さな木戸に、「醍醐きく」という、風流で小さな表札がかかっていた。先生の実母の名前である。池畔散策の便で設けた、お屋敷の裏口であった。表門はまた別である。先生は結婚して姉妹を設け、そこへ同居していた。

 私が大学生の時、先生と居酒屋で飲んだことがある。中学のクラス会だった。

「大学の同期なんか、雪印へ入ってもう部長だぜ! 俺なんか中学教師だから、いまだに平じゃん。まったく差、つけられちゃったよな」

 べらんめいの口調である。先生の顔はもう真っ赤なのだ。

 クラスに、勉強はできないが、かわいい子がいた。我家もほど近い坂道の途中に暮していた。大きくはないが洒落た洋館があり、ガレージにはカーキ色のフォルクス・ワーゲンが停まっていた。

「桃ちゃんは、本当にかわいいなぁ~」

 先生は桃ちゃんにデレデレである。桃ちゃんというのは山吉桃江、これがその彼女の名前だった。今時だと、こんな先生はNGなのだろうか。私にはとても親しみやすい先生であった。醍醐天皇や後醍醐天皇とは無関係であるらしい。明治以降、事業に成功したご先祖が、醍醐の姓を名乗ったのだとか。先生のところは分家である。近くにはもっと大きな本家のお屋敷もあった。つまり醍醐家は、この辺りの大地主なのである。

 先生は今、どうしていらっしゃるのだろうか。  了


2019/02/18

小倉一純

近藤健 先生

 先年、随筆春秋の近藤健先生は、30年近い東京生活を仕舞われ、故郷の町のある北海道へ戻られた。大手石油販売会社の本社を離れて、現在はその札幌支店に勤務されている。ご家庭の事情で転勤願いを出していたのだ。近藤健先生は、会社員と文筆家の二足の草鞋を履いた、サラリーマン作家である。
 一昨年縁あって、随筆春秋の同人となることを許された私は、10編近い作品を、札幌の近藤先生に添削していただいた。「よく書けています!」と寸評があるものの、原稿をめくるとそこかしこに朱が入っている。努力して勉強していくうちに、赤ペンの個所はだんだん少なくなっていき、私にとってそれが何よりの励みとなった。
 先日、近藤健先生よりこのホームページへコメントをいただいた。――機が熟し、花開く日を楽しみに待っております(その一部を抜粋)……と記されていたのである。感動!
 その近藤先生が師と仰ぐのが、随筆春秋の大御所でもある、作家の佐藤愛子先生である。
◆近藤健先生 作品集「Coffee Break 別邸」https://ameblo.jp/j7917400/
小倉一純

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