金田一京助と、Oちゃん
我々は都内の官舎で暮らしていた。父親は役人である。Oちゃんというのがガキ大将で、同級生である我々のリーダー的存在だった。彼の父親は一流大学の出身だ。役所というのは、良くも悪くも学歴社会である。小学5年の我々までもが、父親たちの上下関係に従っていた。学歴社会はいってみれば競争社会である。学校の遠足でOちゃんがカメラを持って来ると、次は官舎の同級生も皆、首からカメラをぶら下げていた。
我々はOちゃんの号令に従い、毎日遊び暮らしていた。
「今日はウチで野球ゲームやろうぜ」
彼はそういって我々を、自分が家族と暮らす3DKへ呼び集めた。外は6月の長雨である。
「わあっ、ホームランだ!」
窓ガラスの向こうでは、雨粒に打たれながら、紫色のアジサイが咲いていた。
◇◇◇◇◇
吐く息も白く、道路の水溜りにも薄っすらと氷が張っている。連れ立って登校しようと我々は、Oちゃんが降りて来るのを待っていた。3階の階段から、忙しい足音が聞えてくる。しばらくして、
「カネダって知ってるかい? 国語辞典のカネダ・イチキョウスケだよ」
開口一番、彼のいつものうんちくが始まったのである。私にはピーンときていた。
―― 我々小学生にとって、金田一(きんだいち)というのは、国語辞典の表紙で必ずお目にかかる名前だった。当時は、金田一京助(きょうすけ)・監修と表紙に書いた辞書が、どこの家庭にも必ず1冊はあったのである。その「金田一・京助」を、彼は「金田・一京助」と読み違えていたのである。彼の信用は失墜した ……
場の空気を読めず勇気りんりんの私は、気がつくと、
「Oちゃんそれっ――、キンダイチじゃないの ……」
といっていたのである。ほかの3人は顔を引きつらせていた。
◇◇◇◇◇
春が来て、近くの区立中学の校庭では桜が満開である。すぐ横を流れる川の水面にも、その影が映っていた。我々はそこで中学1年となっていた。もはやOちゃんの号令には従わない。金田一事件を境目に、我々にも独立心が芽生えていたのである。Oちゃんはもう、我々のガキ大将ではないのだ。
ひとり中学の廊下を歩くOちゃんの表情には、心なしか憂いが漂っていた。 了
2019/02/25
小倉一純
うんちく
◆金田一京助というのは、アイヌ語の研究を専門とする学者だ。言語学、民俗学の大家である。北海道や樺太へも度々赴き、現地のアイヌ人とも生活を共にしている。日本語学あるいは国語学の研究者ではなかったのである。国語辞典に「金田一京助」の名前があるのは、すべてが人の好い先生の名義貸しだそうである。三省堂の「明解国語辞典」がヒットしたのを皮切りに、次から次へと金田一京助・監修と銘打った辞書が出版された。金田一先生は、現実には、一度も辞書の編集に携わっていない、とのことである。
◆長男の金田一春彦(言語学者、国語学者)は、現在私がお世話になっている同人誌 随筆春秋で、佐藤愛子先生と並んでご指導下さっていた先生である。
覚書「金田一京助と、Oちゃん」の裏側
私は、6年生になる直前に、東京のチベット練馬(当時/ 現在は地下鉄大江戸線もできて、相当に発展したそうである)へ越した。
中野の小学校の給食では、アルマイトのお盆にアルマイトのボール、お皿、スプーンなどが載っていた。練馬へ行くと、食器類はすべてクリーム色の樹脂で、お盆もなかった。パン、おかず、牛乳と、品数の分だけ、何回も列に並ばなければならなかった。
住居関連では、都市ガスはまだなくプロパンだった。下水道もなかった。浄化槽を自前で作り、道路脇のU字溝へ直接トイレの汚水を流す。そういう仕組みだから、U字溝へ注ぐ排水口から鼠(ねずみ)が宅内へ侵入することも、よくあった。流し台の向こう側で、夜中になるとチューチュー鼠が啼いているのも、当たり前だった。青大将なんかも普通にいたから、下手をすれば、洋式トイレの蓋を開けた時に、そこへ蛇がとぐろを巻いていたとしても、不思議ではないのである。
それに、練馬は寒い。我家の北側の窓を開けて外を見ると、天突く様な大木が何本もあり、その向こうに藁葺屋根の大きな百姓家があった。この辺りの地主である。その横にススキ野原が広がり、さらに我家の真後ろには大きなキャベツ畑があった。そういう環境なので、北側からの風当たりは強く、1月2月は寒いの寒くないの、もう大変だったのである。
中野では、ドアツードアで20分もかからず、新宿のデパートへ行くことが出来たが、練馬では、池袋の百貨店へ行くのに、同じ条件で1時間以上はかかった。何しろ最寄り駅まで25分である。
中野の繁華街で暮らしていた小学生の自分にとって、初めての練馬は、まさに東京のチベットだったのである。
ここでひとつ、お断りがある。
既にご承知のように、私はOちゃんたちと一緒に、中野の中学校へは上がっていない。Oちゃんがガキ大将ではなくなり、他のメンバーも自立したということは、後になって、彼らから直接聞いたのである。本文中では、我々と書いている。中学に入ってからは、そこに私は入っていない。私は抜けたが、それ以外の彼ら、という意味で我々なのである。従って、私は嘘を言っていない。
皆皆さまには、よろしくご承知おき、お願い致し度く。 了
2019/02/26
小倉一純
近藤健 先生
先年、随筆春秋の近藤健先生は、30年近い東京生活を仕舞われ、故郷の町のある北海道へ戻られた。大手石油販売会社の本社を離れて、現在はその札幌支店に勤務されている。ご家庭の事情で転勤願いを出していたのだ。近藤健先生は、会社員と文筆家の二足の草鞋を履いた、サラリーマン作家である。
一昨年縁あって、随筆春秋の同人となることを許された私は、10編近い作品を札幌の近藤先生に添削していただいた。「よく書けています!」と寸評があるものの、原稿をめくるとそこかしこに朱が入っている。努力して勉強していくうちに、赤ペンの個所だんだん少なくなっていき、私にとってそれが何よりの励みとなった。
昨日、近藤健先生よりこのホームページへコメントをいただいた。――機が熟し、花開く日を楽しみに待っております(一部抜粋)……と記されていたのである。感動!
その近藤先生が師匠と仰ぐのが、同人誌 随筆春秋の大御所でもある、作家の佐藤愛子先生である。
近藤健先生 作品集「Coffee Break 別邸」https://ameblo.jp/j7917400/
2019/02/25
小倉一純
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