父、東京へ 苦学の思い出

 北関東の小さな町に男ばかりの三人兄弟がいた。大正 14 年、その次男として生まれたのが私の父である。

 この町―― 埼玉県北埼玉郡羽生町、現在の埼玉県羽生市 …… は、北側には利根川が流れていて、水田が多く稲作が中心である。しかし、昭和 35 年に利根川に立派な堤防が築かれるまでは、それも一筋縄ではいかなかった。

 父は運動神経の良い子供だった。尋常小学校のときは徒競走でいつも一番をとっていた。そして歌が得意だった。

 話は変わるが――、父は町の大天白神社(だいてんばくじんじゃ)の池で溺れたことがある。大人なら背の立つ水位だった。母親に助けられた父は、これを機に泳ぎの練習をはじめる。

 近くに農業用の水路がある。幅は5メートルはあるだろうか。水源の利根川の近くなので流れが激しい。最初はこの水路にある馬の洗い場で慣らし、徐々に激しい流れに逆らって泳げるようになっていった。

 父はこのときに体の基礎をつくったといつも自慢気に話している。そして皮肉にもその頑健さが苦学する父を助けることになる。

 さて、父の祖父つまり私の曽祖父は、同じ町の三木家から小倉家に迎えられた婿養子である。三木家というのはかつての士族で代々名主をつとめる家柄だった。

 父の祖父には弟がいた。羽生町の町長を、明治 24 年から 20 年の長きに渡ってつとめた人物である。姓名を三木辰五郎(みきたつごろう)という。

 尋常小学校の成績も良かった父は、一時期、この三木家の養子に望まれていたことがある。辰五郎には八重という娘がいた。八重は婿をとり酒屋を営んでいた。その八重夫婦の養子にということである。ところが、事情が変わり養子の話は立ち消えになった。

 父が自慢気に冗談半分で言うことがある。「俺が三木家に養子に入っていれば、お前もいまごろはお坊ちゃんだったのに――」。しかし、その場合、そこに生まれるのは私ではないだろうと思うが、どうだろう。

 大学進学を目指していた父は、卒業も近い尋常小学校6年の夏、12 歳で東京へ出る。父親(私の祖父)のはからいで東京の佐々木家へ預けられ、秋以降は近くの尋常小学校に通うことになっていたからである。佐々木というのは祖父がまだ経済的に余裕があったころに面倒をみた人物であった。ところが佐々木家では、父は、希望とは裏腹に、大学へは進学できない青年学校へやられてしまった。それで仕方なく佐々木家を出てしまう。金もなく、下宿もなく、いまでいうホームレスの一歩手前だった。

 長兄は一足先に東京に出て働いていた。実は、佐々木家は金属加工の工場を経営しており、長兄はそこの住み込みの従業員だった。父は、家は出たものの寝泊りするところがないので、夜になると佐々木には内緒でこっそり兄の寝床に潜り込み、一夜の宿を借りていた。そして、長兄からはときどき小遣いをもらうこともあった。

 自力でなんとか落ち着き先を探そうと、父は新聞広告で見つけた益田家の書生に応募する。手元には筆や墨もなく、急いでいたので万年筆で履歴書を書き、益田家の屋敷を訪ねて執事に見せたところ、「こういうものは毛筆で書かないとダメだよ」と注意されたという。益田家というのは三井家の大番頭をつとめる家柄である。結局、益田家には採用されなかった。

 今度は荻窪の沓掛町(くつかけちょう)にある子爵の風早家(かざはやけ)の書生に応募した。益田家の執事から注意された通り、毛筆で履歴書を書いて持って行った。風早家の女中頭はたまたま父と同郷であった。そういうことも功を奏してか、父は書生として採用された。

 さて、風早家では毎朝、味噌汁の代わりにシチューをいただく。といっても父が華族の方々と一緒に食事をするわけではなく、女中さんたちと座卓を囲むのである。風早家には、近しい関係に伯爵の三条西家(さんじょうにしけ)というのがあった。そこから女中を介して、時折父に薪割りの仕事の依頼などもあった。

 書生は事情があり、1年ほどで辞した。そして今度は、本郷の外語研究社という出版社でアルバイトとして働くようになった。この出版社はときどき文化研究社という社名でも本を出版することがあった。のちに赤尾好夫の旺文社に合併される。

 父の仕事は書店に本を配達することだった。普段は神田などの近場に徒歩や自転車を使って配達する。

 ときとして、主に週末だが、臨時手当をもらって近くは六本木の誠志堂(せいしどう)や渋谷の大盛堂(たいせいどう)、遠くは横浜の有隣堂(ゆうりんどう)まで本を運ぶこともあった。途中には坂道があり、本を積んだ重量のあるリヤカーは、それを引く自転車だけでは扱い切れないことがあった。

 お腹が減るので大福を食べたり、夏の暑さしのぎに屋台でかき氷を食べたりすると、その日にいただく臨時手当の金額を上回ってしまうこともあった。ちなみに当時は、芝公園の近くに「塩大福」を売る店があった。中のあんこは塩だけで味がつけてある。それを、別に用意した砂糖をつけていただくという格好だった。とてもうまい。

 出版社からはときどき、本の配達のほかに簡単なお使いを頼まれた。本の奥付(おくづけ)に貼る検印紙を著者のところに持って行き、後日著者によって捺印されたものを回収して、出版社に届け戻す仕事がそれだ。

 奥付とは、本の巻末によくある、書名、著者、発行者、印刷者、出版年月日等を書いている部分である。またこの当時は、出版部数のチェックなどが目的で、著者自身が切手のような検印紙に捺印していた。捺印済の検印紙は奥付に貼りつけられる。

 いろいろな著者のところへ行ったが、父の印象にいちばん残っているのは水泳の清川正二(きよかわまさじ)である。

 清川氏は昭和 17 年、19 歳のとき、ロサンゼルスオリンピック百メートル背泳ぎで金メダルに輝いた。日本人では初めての快挙である。23 歳のときにもベルリンオリンピックに出場して銅メダルを獲っている。そして翌年、大学を卒業して兼松商店(現 兼松株式会社)に入社し、社長にまでなった。一方、オリンピックの大会運営にも尽力をし、日本人としては初のIOC副会長に選出される。

 さて、話は当時へ戻る。兼松商店の本社が入ったビルの3階か4階に清川氏の席はあった。清川氏を訪ねると、氏は必ず金平糖やチョコレートをくれた。本を増刷するたびに検印紙にも追加で捺印してもらうので、いくども通ったのだと思う。その当時父は 17 歳だった。清川氏は父よりひと回りうえの年齢だったから、29 歳ぐらいではなかっただろうか。

 清川氏には、海外出張の土産話などもよく聞かされた。そしてなによりも、いつも優しい笑顔でむかえてくれたことが、苦学生の父には励ましとなった。いまでも父の心に残っている。

 昭和 17 年のことである。翌々年の6月には米軍機による本土空襲が始まる――。    

 窓の外に目を遣ると、8月の太陽がジリジリと地面を照りつけている。もうすぐお盆だなぁ。私の2人のおじたちは、いまは北関東の小さな町の古刹に眠っている。まわりには田んぼが広がり、稲が穂を出している。今年もまた父を連れて、2人の笑顔に会いに行こうか――。


2017.08.15

小倉一純

                  

■ 当時の自転車とリヤカー

■ 清川正二 著『スポーツの随想』の奥付


【後記】

 これは私が、第23回 随筆春秋賞公募(2017年)で奨励賞をいただいたときの作品である。残念ながら一等賞ではなかった。なぜかというとまず、この作品が私の父親のことをつづった伝聞形式だからである。

 随筆春秋賞公募はその名の示すとおり随筆、エッセイの文学賞である。そのエッセイというのは、自分のことをありのままに書くことを基本としている。さらに、出来事の裏側にある自分の思いや感情を書くことが、最も重要なことなのである。そういう意味でこの作品はテーマが弱いといえる。もしどうしてもこのことを書きたいのならば、もっと枚数を増やして小説にしなさいと、審査員の先生よりアドバイスをいただいた。    

  ――随筆春秋賞公募というのは先生方の講評が返ってくる文学賞なのである。

  文学の達人は傑作、名作といわれる作品を生む。だがそれは、選んだテーマが優れているからこそ、この世に呱々の声を上げることができたのである。どんな名人でもテーマに恵まれなければ、その作品は単なる佳作となる。文章を書く技能もさることながら、生活の中からそういうテーマを探しだす技術をみがくことも、書き手としての重要な鍛錬なのである。

 テーマを探し当てることは「取材」のひとつである。私はこの言葉を聞いてちょっといいなと思った。と同時にこれからは、見られる側ではなく見る側になってやるのだという覚悟めいたものが自分の中に芽生えるのを感じた。

 私もようやく物書きを目指す人間としての第一歩を踏み出せたのかも知れないとその時思った。


2019.08.21

小倉一純



同人誌 随筆春秋 などのご紹介

同人誌 随筆春秋 は現在3人の先生方からご指導をいただいています。

◆作家 / 直木賞受賞・紫式部文学賞受賞など

 佐藤 愛子先生 …… 代表作品:小説『戦いすんで日が暮れて』『血脈』『晩鐘』など

◆テレビドラマ / 演出家・プロデューサー・映画監督など

   堀川とんこう先生 …… 代表作品:TBSテレビドラマ『岸辺のアルバム』『モモ子シリーズ』『松本清張シリーズ』など

◆脚本家 / 旭日小綬章受章・紫綬褒章受章など

 竹山 洋 先先 …… 代表作品:NHK大河ドラマ『秀吉』『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』など 

◆ 小倉 一純 の師匠 ⇒ 近藤健 先生(作家 佐藤愛子先生の愛弟子)

 先年、随筆春秋の近藤健先生は 30 年近く続けた東京生活を仕舞われ、故郷の町のある北海道へ戻られた。大手石油販売会社の本社を離れて、現在はその札幌支店に勤務されている。ご家庭の事情で転勤願いを出していたのだ。近藤健先生は、会社員と文筆家の二足のわらじを履いた、日本一のサラリーマン作家である。

 2017 年、縁あって随筆春秋の同人となることを許された私は、10 編近い作品を札幌の近藤先生に添削していただいた。「よく書けています」と寸評があるものの、原稿をめくるとそこかしこに朱が入れられている。勉強していくうちに赤ペンの箇所はだんだん少なくなっていき、それが私にとって何よりの励みとなったのである。

 先日、近藤健先生よりこのホームページへコメントをいただいた。―― 機が熟し、花開く日を楽しみに待っております(一部を抜粋)…… とつづられていた。感激である。

 その近藤先生が師と仰ぐのが、随筆春秋の大御所でもある 直木賞作家の 佐藤愛子先生 なのだ。

◆近藤健先生 作品集 ⇒ こんけんどうのエッセイ(プロフィールページ)

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