紫陽花の小道
― 悠々自適なんかいらない ―
はす向かいの小母さんは私に向かって「そんな生き方をしていて何が楽しいの?」という。隣の小父さんなどは「還暦にもなったのだから、もうそろそろ悠々自適でやればいいのに」と同情的なことをいう。
詳しい話はまたの機会にするとして、とりあえずいまの私は独身である。高齢の両親と3人で暮らしているのだ。
両親は私の部屋のことをいまだに「おまえの勉強部屋」といっている。つまり、私が小中学生のころから家族はまったく変わらず同じ調子で暮らしているのだ。
ずいぶん昔に、「異人たちとの夏」という映画があった。風間杜夫(かざまもりお)演じる主人公はバツイチのシナリオライターである。ひょんなことから故郷の浅草の街で、幼いころに死に別れた両親とそっくりな2人に出会い、同居することになる。そういう非現実な空間を描いた作品なのである。
この映画のように非現実的な遠い昔のままの親子関係が相も変わらず、いまの私の生活の中心にはある。何かで立ち止まった時、ふとそんなことを思う。私たち家族は、まるで映画の中の不思議な世界の登場人物のようである。
実は、私は 40 代でサラリーマン生活を仕舞い、50 代も後半になってから作家を目指し再起したのである。
その間、私はひきこもりであった。あるいは現在もそうなのかも知れない。映画のように不思議な親子3人の生活を送っているのは、そういうわけがあるからである。
当時の私は自分の存在意義を見失っていた。自分って一体誰なんだ。そんな切迫した危機感を感じていたのである。
作家には中学生のころから憧れをもっていた。私は、もう一度自分という人間を見いだすために、遅蒔(おそま)きながら、物書きになることを決意した。
運よく文学の同人と出会った私は、早速入会を果たす。それは文学界の重鎮(じゅうちん)・佐藤愛子が主催する純文学の同人だった。いまはそこへ鬼の形相(ぎょうそう)でぶら下がっている。
世間ではもうそろそろ孫もできて…… という年齢なのだろうが、私の日常はまるで受験生の浪人生活のようである。
そんな私は、ご近所さんのいうことを思い出し、
「俺って間違っているのかな?」
と時々、信念が揺らぐこともないではない。
ところで先日、「川端康成と三島由紀夫」というNHKの番組を観た。
「彼らも私も、作家というのはねぇ―― 、書けなくなるまでずうっと作家なのよ。だから普通の人みたいに、歳をとったらからって、悠々自適ということはないのよ」
ゲストの作家・瀬戸内寂聴が番組の中でコメントしていた。もっとも三島由紀夫の方は、その信念により、若くして割腹自殺を遂げてしまったが…… 。
私はまだまだ大手を振って自分が作家であるとはいえない。だがお陰様で、腰をすえて仕事のできる「おまえの勉強部屋」から捻(ひね)り出した作品で、いく度か小さな賞をもらい大きな夢を見ているところだ。
物書きを目指している以上、生活信条で彼らに後(おく)れを取るわけにはいかない。ただでさえ私は、遅蒔きなのだから。
「俺には悠々自適なんかいらないんだっ!」
長雨の朝、そんな言葉をくり返しくり返し呪文のように唱えながら私は、紫陽花(あじさい)の小道を歩いている。やがて嘘のような晴れ間がひょっこり顔を出し前向きな気持になった私は、今度は天に向かって、右手の拳を突き上げる。
よーし、がんばるぞー!
了
2019.07.16
小倉一純
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