上木啓二先輩

 上木啓二さんの『襟裳岬』を買った。貧乏性の私は古本を買うことが多い。申しわけないことだが今回もまた、上木さんの印税収入には寄与していない。

 上木さんは若いころから文学に関心があり、そのままつき進んでいればこの道の人間になっていたかも知れないと書いている。大学も早稲田、明治に学んだ。将来の進路を決めるころすでに学生結婚をしていて、先の見えない文学の森へ分け入るのがためらわれ、結局勤め人になったのだと上木さんはいう。奇しくも、勤め先は印刷会社だった。心ひそかに文学をめざしていた学生時代の人脈に引かれて――、という構図が見えるような気もする。

 上木さんには、小学生の時分から、評論文などを書いてはご褒美をもらっていた経緯もある。いまのようにインターネットでもあればまた、上木さんの人生も違っていたかも知れないと私は思う。昔は飛び込まないと何も分からなかったのである。つい先日還暦を迎えた私の時代でもそうだったのだから、その私よりひと回り以上も上の上木さんの世代だったら、なおさらであったはずだ。

 還暦を目前にして病に倒れ、それが契機となり再び筆をとるようになり、同人誌・随筆春秋とも出会った。そんな上木先輩は、現在は随筆春秋の運営側のひとりでもある。

 これから、先輩のエッセイ集『襟裳岬』の中の、同じ題名の代表作を読もうと思う。戦争で亡くなったお父様の思い出が綴られた作品である。


2019.09.13

小倉一純



上木啓二 作「襟裳岬」を読んで


  私は独身です。その私も恋をしたことがありますので、若かりし頃の、お父さまとお母さまのお気持が分かります。もとい――、分かる気が致します。

  この当時、中学校を卒業できるのは、一部の優秀な人間だけであったと思います。尋常高等小学校ではなく、何しろ中学校なのですから。本をたくさん読み、弁も立ったと上木さんは書かれています。いまではもう死語なのかも知れませんが、お父さまは、いわゆるインテリであったのだろうと思うのです。穀物商の美貌の娘であったお母さまがいらして、近くの男たちの評判にもなっていたのだとか。その2人が熱い想いで結ばれて、この世に、夫婦としての束の間の営みが残された。天はそこへ2人の子供を授けていた。そのおひとりが上木さんであったのですね。

  破綻ひとつないメインストリーム(主軸)の文章があり、カミソリで斬ったかのようにサッとそこへ、お母さまと、お父さまの、エピソードが差し込まれている。

  私は戦後 13 年を経て東京タワーの開業と同じ年にこの世に産声を上げました。父は現在 94 歳です。わずか数年ですが、父も戦争へ行っています。行ったと申しましても、国内で皇居などを守る仕事をした陸軍の兵隊でした。そこで通信などを担当していたのです。それがきっかけとなり、終戦後は逓信省という役所へ奉職し、それが日本電信電話公社となり、その民営化を待たずに退職をしました。私は都内の電々公社の官舎で、平たくいえば団地の子として育ちました。

  私は、東京の有名大学、ましてや私学の雄(早稲田大学 / 上木さんの母校)と呼ばれるような大学へは進むことができず、2年の浪人を経てようやく、希望の大学の学生としてその門をくぐることができました。当時は都落ちなどと失敬なことをいう友人もいましたが、私は札幌の大学へ進めたことを最高の幸運であったと思っています。

  大学1年のときには友人の車の助手席へ同乗して、浦河町、様似町、襟裳町、広尾町と回りました。海の際の道路でした。広尾町側はたしか黄金道路と呼ばれているのですよね。修理しても修理しても壊れては金のかかる道路であったから、という曰くつきの国道です。襟裳岬ではユースホステルに泊り、酒の代わりに皆で、牛乳を酌み交わした思い出があります。

  襟裳岬、亡きお母さまの望まれたその地へ、奥様と息子様を伴われてお出かけになり、海軍の哨戒艇(しょうかいてい / 日本の近海を守る艦船)の任務中に命を落とされたお父さまが眠るその青い海へ向かって、上木さんは花束を投じられたのです――。

 月並みですが、込み上げる思いなくしては読めない作品であると私は思いました。 

了 


 2019.09.30 

 小倉一純

襟裳岬


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