同調圧力・お・し・つ・け・

 私のかかっている精神科の女医が「同調圧力を憎む」と、クリニックが開設しているフェイスブックに書いていた。クリニックは、現在はどちらかというと子供専門の精神科である。ドクターは町医者では珍しく発達障害の専門家だ。いじめ、家庭内暴力、児童への性的虐待などとも向き合い、ドクターの守備範囲を越えた活動も旺盛に行っている。

 かくいう私は発達障害である。40 代の厄年で会社を早期退職したころ、初めてこのクリニックを受診した。私は 50 歳を過ぎたころ、ここで発達障害と診断された。当時はまだ大人も大勢診ていた。私はそのまま通院を続け、現在では子供達に囲まれて順番を待つ身となったのである。

「ハイ、次は小倉さ~ん」

 ……

「それでどうしました」

「だから俺はそのとき、そいつをぶん殴ってやろうと思ったんですよ」

 こんなことをいう私は、年上のドクターにたしなめられる。言葉づかいが悪いというのだ。現在私は還暦である。グレるような年齢ではない。が、私は普段、立川談志とか毒蝮三太夫のようなしゃべり方をしている。気がゆるむとそういう地金(じがね)がつい出てしまうのである。どうしてそんな話し方なのか、という理由は、いまここでは書かない。書けばまた別の話になってしまうからである。

 話はそれたが、ドクターのこの戒めも、私にとっては立派な同調圧力なのである。とはいうものの、ドクターに文句があるわけではない。私に非があるのだから。

 幼稚園のころ、ショートケーキを載せるぐらいの大きさの白い皿に、用意された色とりどりのマジックインキで絵を描くという授業があった。私は母と自分とお日様を描いた。私はそのとき力強い光を描きたいと考え、思い切ってお日様を黒インクで描いた。その結果、幼稚園の園長である山本先生に、母と私が呼ばれた。

「小倉君はお日様を黒で描くんです。お日様はオレンジ色とか黄色とか明るい色で描くよう、ご家庭でも指導して下さい。小倉君も分かるわよね」

 母が申しわけありませんと山本先生に謝っていた。

 小学校3年生となり作文の授業があった。私は母の日常生活を書いた。「ぼくのお母さんはヘッテン、ヘッテンとくしゃみをします。変ったくしゃみなので、ぼくはとても面白いと思いました」。永井先生に呼ばれた。

「小倉君、お母さんのくしゃみだけど、ハクションに直しておいたわよ」

 原稿用紙を見ると添削されていた。この文章、ここをハクションに直してしまっては、文意が通じなくなってしまう。ハクションではなくヘッテンだからこそ、この文章が成り立つと思うのだが。永井先生はどう思ったのだろうか。

 一事が万事で、私は事あるごとに先生に呼ばれ、あれはいけない、これは間違いだといわれ、それに従うようにいい含められて育ったのである。つまり私は、常に大人の同調圧力にさらされながら、生きてきたということだ。

 発達障害をもった児童は何事にも規格外であることが多い。そういう児童に対して、なんでもかんでも否定してそれに従わせるような教育、つまり「同調圧力」はいかがなものかと、クリニックのドクターはいうのである。

 小学校5年になると私は頻繁に図工室へ赴き、ギリシャ神話の本を眺めていた。その本はちょっとした美術書のようである。豊満な西洋人女性の裸体を描いた作品がたくさん載っていたのだ。子供だった私は、どうして自分がそういうものが好きなのか理由を説明することはできなかったが、それにとても心惹かれたことだけは確かである。

 図工(美術)の先生が私の後ろに立って腕組みをしながら唸っていた。

「小倉君はこういうのが好きかい」

「うん」

「君は将来は芸術家だな」

 丸眼鏡に長髪の東郷先生は、うんそうだよ、といわんばかりに私へ肯定の眼差しを向けた。普通の先生であれば、女のヌードばかり見る小学生の私を厳しく叱責したことだろう。東郷先生は私に同調圧力をかけない唯一の例外であったといえる。

 いまになって考えると私は、職人とか文筆とかデザインとかアート方面に向く人間だったのかも知れない。こんなことを書くと他力本願で自己責任の放棄だと非難されるかも知れないが、私が同調圧力にさらされることなく自由に育っていたら、サラリーマンなどではなく、もっとクリエイティブな仕事についていたかも知れない。

 いい年をしてこんなことを夢想するこのごろなのである。



2019.10.01

小倉一純

同調圧力、教育虐待?


私の同調圧力との戦い

 同調圧力(同じ価値観で生きなさいと強く求められること)というものに晒(さら)されて生きてきた私は、周囲の期待に応えるべく生きてきたということであり、そういう意味でまったく自分というものがなかった。そこら辺りから、私の中では不整合が発生し、現実に対する不満や精神的2次障害も起こってきたのだろうと思うのである。

 50 歳も過ぎたころ私は、「自分がよくなる」ということを、「世間のシステムに合わせられようになること」ではなく、「何があっても自分の直観や考えに従って生きられる人間になること」というふうに再定義した。奇体(きたい)にも、世間の風は私に冷たく当たるようになった。代わりに、学生のころからの憧れだった文学というものが、私には見えてくるようになったのである。


2019.10.13

小倉一純




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