氾濫 ― 愚かな私 ―
私は札幌では当初、藻岩山(もいわやま)という市民スキー場もある小高い山の麓(ふもと)の学生寮に暮らしていた。近くには電車事業所という、札幌の市電つまり路面電車の整備場兼車庫もあった。学生は、高校生も含め総勢 50 名で、さらに管理人夫婦がわれわれと生活をともにしていた。
そんな恵まれた環境にいた大学生の私だったが、どうしても1人暮らしがしたい、という野望を打ち捨てることが出来ず、首都圏に住む実家の母親に直談判をした。すると、金は出してやるが、代わりに「方角」を占って引っ越せ、という条件がついた。母は当時、そういうものに凝っていたのである。
私は、札幌の大きな白地図を買って、せまい寮の個室の床にそいつを広げた。学生寮を中心に、定規を上手く使いながら、八方へ線を引いてやった。母親のいう方角と、自分が希望の間取りと予算、という条件のすべてを携えて、私は街の不動産屋へ赴いた。
「お客さんみたいな人、ときどきいますよ」
「ああ、そうなんですか」
「でもね、いい、いいっていう方角へ引っ越して、その人、亡くなりましたけどね……」
「えッ、あッ、そうなんですかッ」
要するに、こんな面倒臭い客はご免だ、ということなのである。
そんなすったもんだで決まったのが水車町(すいしゃまち)というところにある新築のアパートである。下見に行ったときはまだ建築中だった。札幌市営地下鉄の中島公園駅を出て、豊平橋(とよひらばし)といういやに風の強い大きな橋を渡る。鮭も遡上(そじょう)する川として市内では知らぬ人のいない豊平川(とよひらがわ)にかかった、鉄筋コンクリート製の立派な橋梁である。豊平川といえば、いわば札幌市民のシンボルともいえる存在であった。その豊平橋を渡った向こう岸の、川の堤防のたもとに私のアパートはあった。堤防は橋と同様、丈夫な鉄筋コンクリート製である。日当たりも悪くカラッとしない雰囲気のところだった。さいわい私の部屋は2階で、思った以上に陽が入った。洋室と和室の2間続きで、風呂と便所がついている。それで1か月3万6千円である。実家のある首都圏の家賃と比べれば、学生でも手の届きやすい金額であった。
さて、私がこのアパートへ越した昭和 56 年(1981)の8月、北海道へは2度の大きな台風がやって来た。8月から9月までの1か月間に、札幌ではおよそ 700 mmの異常な量の雨が降った。札幌の年間降雨量はおよそ 1200 mmなので、ひと月にその6割にあたる量の雨が降ったことになる。この豪雨で石狩川流域では8月の上旬と下旬に大洪水が発生し、全体の被害額はおよそ 1000 億円に上った。当時は「 500 年に1度の洪水」ともいわれた。石狩川といえば、大雪山系から石狩湾へと注ぐ北海道随一の1級河川である。
豊平川というのはその支流である。しかも石狩川とは違い、札幌の中心街を貫いている。石狩川と同じ1級河川でもある。昭和 56 年の台風では、この豊平川も氾濫(はんらん)した。私が越したアパートのある水車町より少し下流の菊水元町(きくすいもとまち)の辺りまで、水の被害は及んでいた。本流である石狩川の水量が異常に増えたことで、支流である豊平川の水が十分に石狩川へ捌(は)けなくなり、石狩川との合流点でもある豊平川の最下流から上流へ向かって水量が激増し、それにともない豊平川上流の町々へも、水害が広がりつつあったのである。私のいた水車町は菊水元町より豊平川のやや上流に位置していた。
私はのんびりとした学生だった。いや、のんびりし過ぎた学生だったのかも知れない。自分も命を落とすかも知れない危険と隣り合わせだったのに、そのことにはまったく気づいていなかった。すぐ近くの菊水元町まで、浸水の被害が広がっていることなど、露ほども知らぬ私だったのである。
実家へも帰らずアパートの部屋でゴロゴロしていた当時の私は、窓から見える豊平川の堤防の上端から、こちら側へチョロチョロと水が溢(あふ)れているのを見ていた。真っ暗に曇った空からは大粒の雨が強風に煽(あお)られながらドカドカと降っている。豊平川の堤防のたもとにあるアパートではあるが、堤防そのものが邪魔になって、豊平川の暴力的な水の流れをこの目で直接見ることはなかった。
――川はまさに私のアパートの前で氾濫を起こす寸前だったのである。
今回の台風 19 号(令和元年 10 月)の被害を目の当たりにした私は、当時の被害状況をネットを使い、あれやこれやと調べてみた。その結果こんなシビアな事実が分かったのである。昭和 56 年当時の私は、目の前の堤防から少量の水が漏れていることは知っていたが、それ以外、台風のことなどにはまったくといっていいほど関心がなかった。若いこと――、無知であること――、がいかに怖ろしいことであるかを、今回ほど思い知らされたことはない。いまになって肝を冷やし青くなっている私なのである。
それと、前々からそう思っていたのだが、占いなんてやっぱり信じられないと、私が再確認したのはいうまでもない。だが、母親はいった。
「あんたっ、いまこうやって生きてるじゃない。だからやっぱり、方角占いは当たっていたのよ!」
了
2019.10.17
小倉一純
あとがき
水車町というのは低い土地で、昔は豊平川から水を引いて粉を挽くための水車小屋があった。それで水車町というのである。
当時、水車町辺りのコンビニでは、学校帰りの小学生が大挙してやって来ると、2階から店主が血相を変えて降りて来る。そういう場面に私は何度も遭遇した。放っておくと彼らが店を荒らすからである。
深夜、コンビニで買い物をした私は、その後で何度か暴漢に襲われたことがあった。
北海道弁で――、
「兄ちゃん、俺ともめないかい?」
と声をかけてくるや否や、真空飛び膝蹴りのような技で私の背中を蹴ってくるのである。よく見ると、まだ高校生か浪人生ぐらいの歳だった。きっとうっぷんが溜まっていたのだろう。「もめないかい」というのは北海道弁で「喧嘩しないか」という意味である。
――水車町はそんな下町だったのである。
台風のあった昭和 56 年の2年後の1月には、豊平川の対岸にある札幌の名門、中島パークホテルの一室で、農林大臣まで務めた北海道のヒグマこと中川一郎が、首を吊って亡くなっている。中川一郎は北海道の広尾町の出身である。テレビのニュースで事実を知ったとき、川を挟んでの明暗を私は感じた。しかもその相手は超大物政治家である。
運が向くという方角まで占い、安くはない敷金、礼金、家賃までも払って、なんだか随分と勉強をさせられてしまった水車町の青春だったのである。
了
2019.10.17
小倉一純
大洪水を起こした豊平川 昭和 56 年(1981)
泥の混じった濁流に三角波が立っている
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