黒い着物のおじさん
家に犬がいた頃、僕は毎朝散歩に出かけた。我家の小さな門を出て、道なりに歩いて行くと、坂の一番下の角のご主人が、いつも黒っぽい着物を着て、煙草をふかしながら道に立っていた。スチールの銀縁メガネに、丸刈りの頭である。レンズには少々黒っぽいスモークがかかっていた。20年近くも前の話である。
僕は犬の綱を引っ張り、そのご主人の横を通る。毎朝のことだが、挨拶はしない。こっちを見ているので、こちらもそのご主人の方を見る。ご主人の仕事は右翼の総帥である。時々、街頭宣伝車が停まっていることもあった。鼠色のマイクロバスで、窓という窓には鉄線の網が張ってある。屋根の上には拡声器がついていた。どんなことをしゃべるのか僕には分からないが、住宅街でこの車を使うことはなかった。
その頃僕は、会社を退職して毎日ぶらぶらしていた。仕事に就かなくては、という気持だった。
ご主人の横を通り過ぎる時、
「右翼でも中途採用を募集しているのかな?」
こんなことを口にしていた。あまり毎日同じことをいうものだからご主人は、ちらっとこちらを向き、
「馬鹿なこといいやがって、アホが」
とつぶやくようになっていた。
そもそも僕は独り言が多い。情緒不安定なところがあるのだと思う。しかも、その場に居辛くなるようなことに限って口にしてしまう癖がある。こんな関係が3年は続いたが、言葉を交したことはなかった。僕はご主人のレンズの向うの目を、1度も見たことがない。ある朝僕は、犬を連れていつもの散歩に出た。門扉の前の道路を左へ向って歩く。町内会館のところを行き過ぎると道路は右へかぎの手に曲っている。そこを道なりに行き、犬がいる家のところをまた道なりに右へ折れる。だらだら坂を降りきったところが、ご主人のお宅である。その日は、ご主人は立っていなかった。我家の小さな庭に植えられた金木犀(きんもくせい)も香り始める、9月の中頃のことだった。
夜になって新聞を見た。都市銀行の本店へ、先物取引で損をしたから弁済をしろ、といって乱入した男が逮捕された、とある。ご主人だった。しばらくしてご家族の姿も見えなくなり、お宅も人手に渡った。 了
2018/08/07
小倉一純
金木犀(きんもくせい)の花
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