否定された武者小路実篤
武者小路実篤が好きだった。「友情」「愛と死」などの作品を、紙面へのめり込まんばかりの勢いで読んでいた。高校の同じクラスに彼女ができた。通学路にある彼女の家へ、立ち寄るようになった。そこからは、自転車は脇で押し、徒歩である。道すがらいろいろな話をした。
「将来、僕が会社を辞めて、パチンコ屋の釘師になって札幌へ行く、といったら、ついて来てくれるかい?」
「……」
そんな、愚にもつかないことばかりを話した覚えがある。彼女は、一体この人は何を考えているのだろう、と思ったに違いない。「友情」も「愛と死」も、荒筋はひと通り説明した。どこに感動したかということも、熱っぽく語った。その日、「愛欲・その妹」と題字のある新しい文庫本をカバンに忍ばせていた。盲目の兄を作家にすべく、純真な心で応援する妹の情熱を描いた「その妹」。背中の曲がった画家と妻、彼の兄との3角関係を描いた「愛欲」。実篤の2つの戯曲が収められている。
白い息を吐きながら、佐々木歯科医院と看板のある家の呼鈴を鳴らした。ほどなく、すっかり身支度を整えた彼女が、ガラスの嵌った玄関扉を内側へ開けて顔を出した。辺りは賑やかな商店街である。
「おはよう。今日は寒いね」
「おはよう」
彼女は、紅葉のように赤くなった両手を口元へ当て、息でそれを温めていた。
「武者小路実篤の新しい本、持って来たんだ!」
「あら、ほんとぅ」
ゴムバンドで自転車の荷台に括りつけてあったカバンから、文庫本を取り出した。その時、体格のよい彼女の母親が、早く学校へ行きなさいといわんばかりに、框の向うへ顔を出した。僕が手に持った本の表紙を見るなり、彼女はいった。
「まあ、いやらしい、好美ちゃん! そんな本読むのよしなさい……」
理由もなく否定されてしまった。僕は、武者小路実篤は白樺派と呼ばれるグループの作家で、良心的で真面目な作風です、と彼女の家で母親の顔を見るたびに説明をした。だがとうとう、武者小路実篤が公認されることはなかった。
武者小路実篤って白樺派なんですけど……。
還暦になった私は、青空に向かって、そんなことをつぶやいてみる。 了
2019/01/21
小倉一純
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