Gonta398

記事一覧(19)

理想郷

 明日は雛祭りという週末に、高校時代の同級生数名が集まった。酒と料理を用意して、わが家で酒宴を催したのである。彼らとはここ数年、年に1度は顔を合わせている。有り難いことに、費用は割り勘だ。 彼らは所帯を構え仕事を持っている。尤も、我々も還暦となったので、そろそろ引退を考えている仲間もいる。会議ではないから、議題などはない。思いつくままに勝手な話をするのである。終われば次の話題へ移る。馬鹿話の類も多いが、それがまた楽しいのだ。 1次障害で発達障害、2次障害に統合失調症を持つ私は現在、作家となるべく勉強中である。小説家は、中学の頃から憧れの存在だ。そんな私が一番困るのは、自分の立ち位置の認識である。恋愛をして家族をつくるとか、一生の仕事を持つ、という点において、私は失敗している。病気の影響もあり頓挫したのだ。家族の中での役割、会社や社会での立ち位置というものを、肌で感じることのない生活を送る私にとって、彼らの、発言も含めた一挙手一投足は、とても役に立つ。 私は毎日必ず、原稿用紙で5枚は書くようにしている。腕を上げるための習作である。引き籠って物を書き、時々友達の来る私は、物を書くことを第一に考えれば、理想郷に身を置いているのかも知れない。  了2019/03/06小倉一純

サラリーマンの仕事

 私は鉄鋼会社、中でもステンレス鋼に特化した会社に勤めていた。その会社がかつてステンレス配管というのを開発した。ステンレス製の水道管である。築地の新聞社や銀座の大きなビルなどにも早速採用となった。それまでは亜鉛メッキ鋼管、つまり鉄の管が多く使われていた。ステンレス鋼は、耐食性、耐熱性、低温特性に優れた金属である。年数が経っても、赤さびなども発生せず、とても衛生的に使えるのだ。 入社3年目の私がいる営業の部署に、ひっきりなしに電話がかかっていた。「ステンレスなのに、錆が出ているぞー!」 現場の水道工事屋さんである。調査してみて分かったのだが、水道の蛇口とステンレス配管を繋ぐところに、絶縁パッキンが入っていなかったのである。それまでは、蛇口の金具も水道管も鉄であった。今度はそれが、蛇口は鉄、水道管はステンレス、という具合になる。鉄にニッケルとクロムを混ぜてつくるのがステンレスだ。そんなステンレスは、鉄とは異種の金属なのだ。「異種の金属が水溶液中で接触すると、電位差により電気が流れ、錆が発生する」 という理屈がある。そういう事情なので、鉄の蛇口とステンレス配管の繋ぎ目のところへ、電気を通さない絶縁パッキンを入れる必要があったのだ。その辺りの、会社のアナウンス不足もあり、一時期、錆に関する多くのクレームが発生した。 疲れて行きつけの飲み屋へ顔を出すと、―― 時間まで机にいれば給料がもらえるんだから、サラリーマンは気楽でいいね! …… 口癖のようにおばちゃんはいった。 その後転勤もしたが、たとえお客さんとダイレクトに接触しない、総務や経理などの補助管理部門の仕事でも、定時から定時まで、決った仕事をこなして帰るという日常はまずなかった。朝から晩までひっきりなしに電話がかかって来る。他部署からの問題提起である。私は思うのだが――、仕事をすることって、その問題解決の連続なのである。つまり、仕事はクレーム処理みたいなものなのだ。 サラリーマンの仕事って、そういうもんなんです。分かります? おばちゃん!  かくいう私は、錆のような赤い色のTシャツを着て、同級生と記念写真に納まる年齢となってしまった。  了2019/02/22小倉一純

兵衛・ひょうえ

 あの忠臣蔵で有名な、堀部安兵衛は、「ほりべ・やすびょうえ」と読むのが正式だそうである。そもそもは、律令制下で、皇居の警護や天皇の身辺の護衛などを行った者を指す官職名が、「兵衛」(ひょうえ)なのである。それが、江戸時代の近松門左衛門の頃から変化して、「べえ」とも読まれるようになった。今の我々の耳には、「ほりべ・やすべえ」の方が馴染みがある。因みに、大正時代の総理大臣・山本権兵衛は、元来は「やまもと・ごんべい」であるが、公称では「やまもと・ごんのひょうえ」としていた。 そういえば、私の中学3年の時の担任が「醍醐兵衛」である。「だいごべい」ではなく、「だいごひょうえ」先生という。大学の農芸化学を卒業して、理科の第2分野・生物を担当していた。相当な呑ん兵衛で、大衆居酒屋のモツ煮込みなどを特に好んだ。石神井公園の水面の畔の小さな木戸に、「醍醐きく」という、風流で小さな表札がかかっていた。先生の実母の名前である。池畔散策の便で設けた、お屋敷の裏口であった。表門はまた別である。先生は結婚して姉妹を設け、そこへ同居していた。 私が大学生の時、先生と居酒屋で飲んだことがある。中学のクラス会だった。「大学の同期なんか、雪印へ入ってもう部長だぜ! 俺なんか中学教師だから、いまだに平じゃん。まったく差、つけられちゃったよな」 べらんめいの口調である。先生の顔はもう真っ赤なのだ。 クラスに、勉強はできないが、かわいい子がいた。我家もほど近い坂道の途中に暮していた。大きくはないが洒落た洋館があり、ガレージにはカーキ色のフォルクス・ワーゲンが停まっていた。「桃ちゃんは、本当にかわいいなぁ~」 先生は桃ちゃんにデレデレである。桃ちゃんというのは山吉桃江、これがその彼女の名前だった。今時だと、こんな先生はNGなのだろうか。私にはとても親しみやすい先生であった。醍醐天皇や後醍醐天皇とは無関係であるらしい。明治以降、事業に成功したご先祖が、醍醐の姓を名乗ったのだとか。先生のところは分家である。近くにはもっと大きな本家のお屋敷もあった。つまり醍醐家は、この辺りの大地主なのである。 先生は今、どうしていらっしゃるのだろうか。  了2019/02/18小倉一純

朝比奈さん

 野坂昭如邸の隣にある青木君の家へは、2~3度お邪魔したことがある。彼とは高校の同級生であり、当時代々木駅前にあったマンモス予備校の勉強仲間でもあった。彼とは、駅舎の中にある小さな飲屋街でよく飲んだ。あっちゃん、という看板のかかった店がそれである。5人も座れば満席になる、文字通り、あっちゃんという小母さんが経営する小さな焼き鳥屋だった。名物料理は煮込みである。それと焼き鳥。カウンター席から見える、厨房の小さな窓の向こうは線路である。ターミナル駅の新宿も近く軌道の幅は広い。代々木駅の保線区の助役や、近くへ仕事で来たという芸大出の広告プランナーなど、いろいろな人物と酒を酌み交わした。青木君の家は杉並だったので、練馬にあるわが家より近いという飲み助の理由で、幾度か泊めてもらったのである。 翌日、家の外へ出ると、当然ながら隣の野坂昭如邸も見える。私はそこで、30を少し回ったぐらいの、背広を着たサラリーマンと顔を合わせた。しっかりとして度量の大きい、受験の悩みでも相談したくなるような人物であったように思う。若いけれど頼もしい感じのする偉丈夫である。サラリーマンは隣の野坂邸を尋ねてやって来ていたのである。なぜだか今でも、はっきりと覚えている。 私がお世話になっている同人の副代表に話を伺うと、野坂昭如と佐藤愛子先生の編集者は同じ人物であり、今は毎日新聞の会長になっている朝比奈豊氏であるという。ということは、まさにこの人物が朝比奈氏であったかも知れない。 還暦を迎えた私は現在、作家となるべく勉強中である。こんなことだったら、あの時のサラリーマンに、――40年後、私は作家を目指しますので、どうぞよろしくお願いいたします……とでも頼んでおけばよかったと思う。 後の祭りである。  了2019/02/18小倉一純

先週の私と、これから

 2016年の私は、自分の脆弱なる存在に危機感を感じて、自分史づくりを始めた。雑感も含めて書き、PDFにまとめて、インターネット上にもアップした。なぜそうするかといえば、やはり本音は、人に見てもらいたい、共感してもらいたい、ということなのだろう、と今にして思う。 アクセス数はゼロだった。文章を刷って人にも渡したが、意図を理解してくれる人も、多くはなかったと思う。努力はすれど報われず、すべてが徒労に終わった感があった。書いても書いても見向きもされない、という状況にはなかなか辛いものがあった。 偶然だが、一昨年、随筆春秋と出会うことができた。そして今回、こうして発表の場を持つに至った。リニューアルしたこのホームページのことである。先週の私は、新しい玩具を得た子供の様に嬉々として、そこへ並べる作品を吟味していた。 ここだけの話だが――、私は、物を書くというのは、芸術であると思っている。文章により、言葉を超越した美の世界を描く。とても崇高な事だ。だが私は、そこに物語が必要である、つまりストーリーを考えなければならないということを、全く自分に含んでいなかった。笑ってしまう。ストーリーを書いてこその作家なのである。 ただ、生意気を言わせてもらえば、私には書きたい事がたくさんあるように思う。30代となってからは、身体をこわして半健康となり(40代に入るまでサラリーマンを続けた)、私は自分だけを見つめて生きて来た。そんな私の中には潜在的に、語りたい世界がたくさんあるのだ。それを上手く取り出すことが出来れば、物語はいくらでもあるように思うのである。それに、ひとつの些細な出来事であっても、切り口を変えれば何通りもの違う話となるのだ。そう考えると、人生が終わるまでにすべてを書けるだろうか、ということの方が心配になってくる。 今は、その話を掘り起こすための手練手管を学ぶべき時なのだ、と思っている。随筆春秋に入会してから、それを勉強しているのである。   了2019/02/11小倉一純

私と身内、今どきの医学部

 私が妹のように思っていた従妹、の娘は、茨城県で大きくなった。彼女は県庁所在地の進学校に通っていた。国立の医学部を第1志望にしていたらしい。理屈はよく分からないが、「私は女だから、7浪でも8浪でもするんだ!」と威張っていたようである。結局、今年の春、東京郊外にある私立の医学部の学生となった。 従兄は私のひとつ上で、先の従妹の兄である。子供時代は私と兄弟のように過ごした。今は北海道にいる。その長男だが、先ごろ能登の、国立の医学部を卒業して研修を終え、首都圏の癌専門の病院へ就職をした。 私は30歳の頃、精神的な病になった。医師は病名を告げなかったが、恐らく統合失調症である。自らの希望で2か月ほど入院もした。後年50歳を過ぎて、発達障害も判明する。発達障害が1次障害、統合失調症が2次障害という図式が、私の病態であると分かったのだ。 30歳以降は半健康でありながら、只ひたすらにサラリーマン人生の継続に努めた。今思えば、心のダメージを深堀りしないうちに、思い切ってすべてを清算した方がよかったのかも知れない。だが私はこういう性格だ。自分を完全に壊すまでやらないと、気が済まなかったのである。お陰で今は、何も成し得なかったものの、精一杯やったということだけは確信できる。それは、自分だけを見つめる人生だった。そんな私は、卵も含めると、身内に5人の医者のいることを知らなかった。ずっと親戚とのつき合いも途絶えていたので、その間、彼らの結婚により、あるいは生れた子供が大きくなって、そういうことになっていたのである。右肩下がりの時代である。現時点で優良企業といわれるところへ入っても、一生面倒をみてもらえるとは限らない。優秀な子は、今まで以上に、医者を目指すようになったらしい。 かつては出来の悪い、医者の子弟の受け皿でもあった、新設の、私立の医学部も、今では難易度が上がっている。最低でも早慶へ入るほどの学力を要するそうだ。一方、昨今は受験生全体の数も、かつての半分にまで減少している。そんな中、私立の医学部では、学費を総額で1千万円以上値下げしたところもある。それに、奨学金制度も充実してきて、サラリーマンの子弟でも、今までは無理だった私立の医学部へ進学できるようになってきた。 そんな時代の変化に、私は全く気づいていなかった。身内や知り合いの子弟が、こぞって医学部を目指すという現実を目の当たりにして、私は少々驚いているのである。  了2019/02/11小倉一純

お向かいに泥棒が入った!

 モンベルのナップザックとウインドブレーカー、スポーツシューズという出で立ちの若い男が、インターホン越しに食い下がっている。高齢の母が応対しているらしいが、埒が明かない。階下へ下りた私は、リビングの掃き出し窓を開け、「そういうお宅は誰なんですか?」 大きな声で怒鳴った。「警察本部の田中(仮名)といいます」「○課です」「昨年の12月X日、お向かいの山崎(仮名)さんのお宅に空き巣が入りまして」 私は窓際のスツールに腰をかけ、招き入れた捜査員と向かい合った。庭で中腰になっている彼は、横浜の赤レンガ倉庫近くの県警本部から来たという。明日は、この辺りにも積雪の予報が出ている。空は鉛色である。ウインドブレーカーだけでは、真冬の冷気が骨身に染みるのではないだろうか。「当日、犯行時刻の午後4時頃、お宅の車が、お向かいの武田(仮名)さんのカメラに映っているのですが」「車の脇には、この辺では見かけない女性の姿がありました。何せ、画像が小さいもので、人物の特定ができないんです」「はっきりしたことはいえませんが、外国人の犯行の可能性もあります」「何か心当たりはありませんか?」 フェンスの向こう側の道路では、相棒の私服警官が、行きつ戻りつしていた。警察官は、口には出さないが、ウチも疑われているのだろうと思う。犯人が見つかるまでは、基本的には全員が黒星である。高齢の両親が山崎さん宅のガラスを破って侵入するとは考えにくいが……。山崎さんはもう高齢でご夫婦だけの暮らしである。よく茂った庭に面した掃き出し窓付近の様子は、道路からはほとんど見えない。事件の翌日にも、道路に出ていた父が、地元警察署の所属とおぼしき刑事に、事情聴取されている。午後からはガラス屋も来ていた。破られた掃き出し窓の、ガラスを交換するためだったのだろう。 高校時代にも、斉藤(仮名)君事件というのがあった。私が卒業した都立高校は、定時制を併設していた。当時、その定時制の生徒だった斉藤君に疑いがかけられたのだ。容疑は放火である。全日制の私の同級生の中にも、強い疑いを持たれた生徒がいた。彼(彼女)は、法廷では、始終泣き通しだったそうである。かくいう私も、敷地内の校舎脇で、背広を着た警察官の事情聴取を受けたことがあった。嫌な思い出である。 今回も、事件が解決する迄は、我われの容疑も100パーセント晴れた、とはいえないのである。 早期解決を切に希望する。  了2019/02/09小倉一純

津軽海峡波高し

 結局、目出度く、共通1次試験元年の受験生となってしまった。それは、国立大学の1期校・2期校の制度がなくなるタイミングでもあった。高校を卒業して仕方なく2浪しているうちに、私より先に、世の中の方が変わってしまったのである。 マークシート方式になるらしいぞ。シャーペンではなく削った鉛筆が何本も必要になるぞ、と新しい情報が入る度に、今年こそは合格できるだろうか、と不安な気持ちになった。ショックだったのは、突然5教科7科目の試験を受けなければならなくなってしまったことだ。今どきであれば、「聞いてないよ」と叫びたいところである。ところが、それが功を奏して合格できた、という現実も私にはある。2浪だったから、他の受験生よりも余計に勉強をしているわけだ。科目が多いことは、かえって有利になったのだ。 ――いよいよ、合格発表の季節になっていた。合格通知の発送は、同じ国立大学でも、学校よって日程は異なる。受験した北大からの合格通知を待っている時、私は新聞に「本当は合格の受験生、早まって自殺」の文字を見つけた。予定した日に合格通知が届かなかったので、不合格と思い込んだ受験生は悲観し、自らの命を絶ったのだ。私のそれも、予定日には届かなかった。郵便物は雪の札幌から、津軽海峡を越えて届くのである。――1日ぐらい遅れるのは当たり前、当たり前……心で念じながら、予定日の夜は過ぎていった。 翌日は都内も、朝早くから雪模様である。辺りはまだ薄暗い。台所の窓を開けると、すぐ目の前が門柱灯である。灯りの中を粒の大きなボタン雪が乱舞している。その光景はまるで私の心模様だった。7時を少し回った頃である。バイクの音が聞える。微かだが、間違いなく配達のスーパーカブのエンジン音である。濃いブルーの厚手のカッパを着た郵便局員が、白い息を吐きながら、我家の門扉を開けようとしていた。「郵便です!」 素足にサンダルで外へ出た私は、局員の方へ手を伸ばした。薄茶色の封筒には、門柱の蛍光灯に照らされて、「北海道大学」の文字が見える。局員は濡れた肩で大きく息をしながら、バイクにまたがり、方向転換をして戻って行った。受験生の悲報を受けて、我家へは特別の配慮で、大急ぎで合格通知を届けてくれたのだろう。当時、郵便局はまだ、郵政省というお役所であった。きっとあの郵便局員も、必死だったに違いない。40年前、私が大学生になった、忘れもしない瞬間である。 1か月後、私は、青函連絡船の甲板にいた。津軽海峡波高し! なれど前途晴朗なり――。 合格、おめでとう。  了2019/01/28小倉一純

憧れの遠藤周作

 私が、作家に憧れを抱いたのは、中学生の頃だった。遠藤周作のユーモア小説集、ぐうたらシリーズなどを愛読するようになった時からである。「真夜中になると私は、ウイスキーを口に含む。むろん酔わない程度にである。連日の徹夜仕事の疲れを、誤魔化すのが目的だ……」(先生の文章を思い出しつつ書いた、私の創作)、という先生の、作家としての一挙手一投足をカッコイイと思ったものである。 当時、違いの分かる男・ゴールドブレンドというインスタント・コーヒーのコマーシャルが、テレビで流れていた。小田急線の柿生の里の、狐狸庵の庭で、執筆の合間に愛犬と戯れる先生が映し出されていた。その白い中型犬は、失礼ながら、いかにも駄犬という風情の雑種である。でも、それがまた、先生の人柄を引き立てる役目を果たしていた。 今は半ば死語であるが、私は、「インテリ」という言葉が好きだった。その言葉を体現している存在が、まさに遠藤周作のような作家だったのである。とにかく勉強していて、物事の本質論を語る。それを文章に書き、本も出版される。時折テレビに出ると、少し照れながら、「いやー、あれはね、そういうつもりで書いたんではないんですよ」といって頭をかく。サラリーマンの倅であった私は、そういう作家を憧憬の眼差しで見つめていた。  さりとて私には、父親の後を継いで、サラリーマンになることぐらいしか思いつかなかった。父親もまた、それを望んでいた。蛙の子は蛙、という訳である。当時は、パソコンやインターネットもない。知らない世界の事を知りたければ、直接そこへ電話するか、その道の人物を直に訪ねて頭を下げる位しかなかった、と思う。辛うじて「情報源」なる本も出ていたが、文筆関係であれば、出版社や新聞社などの連絡先が、一覧となって印刷されているだけである。結局、意を決して、その世界へ飛び込んで見なければ、先のことは分からないのである。本質的には、今も変わらないのかも知れないが、当時の私には、とてもそんな勇気はなかった。 果せるかな私は、サラリーマンとなった。成り行きで鉄鋼業界に入った。成り行きで身体をこわし、成り行きで早期退職をした。40代の頃である。気が付くと、成り行きで、私は50代後半になっていた。高齢の両親の面倒をみながら暮らしているのであるが、それも成り行きである。偉いと褒められるようなことではない。そんな自分の人生を振り返り、私は、忸怩たる思いに駆られるようになっていた。便利になったインターネットでその方面を探してみた。その方面? もちろん私がインテリになる道である。還暦を目前にして作家になろうと、ついに漠然と、思い込んでしまったのである。  ある同人の公募へ作品を書いて出した。2年続けて奨励賞というのをいただくことができた。これから妻子を養っていこう、という訳でもない私は、その道へ飛び込んだ。今年還暦を迎えた私は、憧れたその道のスタートラインへ、とうとう立つことができたのである。40年以上もの歳月を経て、やっと想いの一端をつかんだのだ。思えばずいぶん長い道のりだった。これからの道もまた、長いのだろうと思う。とにかく歩いて、我が足跡を道に刻んでいきたい。  了2019/01/31小倉一純

太宰治の恋人

 父は、北関東の小さな町から東京へ出て、苦学していた。祖父はすでに他界し、祖母は細々と百姓をしている。父が33歳の時にその祖母も亡くなり、私は祖父母には1度も会ったことがない。 東京の父は、都立第九中学校(現都立北園高校)の卒業を待たずに、豊島商業学校へ移っていた。尋常小学校の卒業を前に単身東京へ出ていた父は、不都合が重なり、進学が遅れていた。中学よりも豊島商業へ行った方が、早く大学受験の資格を得ることができた。九中は名門だったが、苦渋の決断をして、商業へ通っているところだったのである。 元芸子の大家さんが切り盛りする南陽館という下宿が、父の生活の拠点だった。下宿だが賄いはなく、戦争中の当時は、専ら外食券食堂での食事だった。相前後したが、頃は昭和19~20年。ここは御茶ノ水駅近くの本郷1丁目である。下宿の近くには、博雅という中華料理屋やお茶の水料理学校という各種学校、外食券食堂や、松竹の社長の邸宅があった。そして、お茶の水美容学校がある。 お茶の水美容学校は洒落た洋館で、創設者は山崎晴弘という人物である。本郷1丁目の町会長でもある。小柄で、脚にはいつもゲートルを巻いている。米軍機が度々編隊でやって来ては、街を焼き尽くす目的で、焼夷弾を落としていく。いわゆる空襲である。町会長は、町内の人々を防空壕に誘導する責任者でもあった。 父、つまり康次青年は、「空襲警報発令――! 空襲 空襲」 とブリキのメガホンで町内を触れて回る仕事を、町会長から仰せつかっていた。 町会長のところには、富栄(とみえ)さんという娘がいた。年の頃は25歳。写真通りの、なかなかの美人である。父親と同じ、小柄な人である。 彼女はすでに結婚していた。旦那は商社勤めで、結婚するとすぐ、単身マニラへ赴任した。時折、町会長が手招きをする。康次青年を自宅へ呼んでくれるのである。苦学している学生に、娘の手料理でも振る舞おうというのだ。そんなことが幾度かあった。自宅へ上がると、彼女はすでに台所へ立ち、煮物をしている。 時折、茶の間へ顔を出し、「あら学生さん、出身は――」「あなた、どこの学校へ行っているの」 二言三言、声をかけてくれる。 白粉の仄かな香りがした。踵を返した彼女の、髪を結い上げた白いうなじが、康次青年の目に映る。やがて食事が振る舞われる。 戦争が終ると、富栄さんは美容師として、三鷹で働くようになる。昼間は友人の美容室。夜は進駐軍のキャバレーにあるヘアーサロンだ。 翌昭和22年、27歳の時、彼女は仕事の帰り、屋台のうどん屋で酒を飲む、太宰治と出会う。彼女の兄が、旧制弘前高等学校の出身で、太宰の2年先輩だった。彼女の下宿も、太宰が行きつけの小料理屋の斜め向かいにあった。それで話がはずみ、2ケ月後には太宰から、「俺と死ぬ気で恋愛してみないか――」 と口説かれた。 1年後の6月13日、富栄さんと太宰は、深夜の玉川上水で投身自殺を遂げる。 康次青年は新聞でこれを知る。19日になって、2人の遺体が発見された。太宰はすぐに運ばれ、手厚く安置された。富栄さんは――、粗末な茣蓙(ござ)をかけられただけである。彼女の父親がそれを見て、呆然と立ち尽くす姿が写真に撮られ、新聞に掲載されていた。康次青年は、あの人の最後の姿など見たくはなかった……。 思い出を語る父の目に涙が滲んでいる。  了2016/06/09 小倉一純

否定された武者小路実篤

 武者小路実篤が好きだった。「友情」「愛と死」などの作品を、紙面へのめり込まんばかりの勢いで読んでいた。高校の同じクラスに彼女ができた。通学路にある彼女の家へ、立ち寄るようになった。そこからは、自転車は脇で押し、徒歩である。道すがらいろいろな話をした。「将来、僕が会社を辞めて、パチンコ屋の釘師になって札幌へ行く、といったら、ついて来てくれるかい?」「……」 そんな、愚にもつかないことばかりを話した覚えがある。彼女は、一体この人は何を考えているのだろう、と思ったに違いない。「友情」も「愛と死」も、荒筋はひと通り説明した。どこに感動したかということも、熱っぽく語った。その日、「愛欲・その妹」と題字のある新しい文庫本をカバンに忍ばせていた。盲目の兄を作家にすべく、純真な心で応援する妹の情熱を描いた「その妹」。背中の曲がった画家と妻、彼の兄との3角関係を描いた「愛欲」。実篤の2つの戯曲が収められている。 白い息を吐きながら、佐々木歯科医院と看板のある家の呼鈴を鳴らした。ほどなく、すっかり身支度を整えた彼女が、ガラスの嵌った玄関扉を内側へ開けて顔を出した。辺りは賑やかな商店街である。「おはよう。今日は寒いね」「おはよう」 彼女は、紅葉のように赤くなった両手を口元へ当て、息でそれを温めていた。「武者小路実篤の新しい本、持って来たんだ!」「あら、ほんとぅ」 ゴムバンドで自転車の荷台に括りつけてあったカバンから、文庫本を取り出した。その時、体格のよい彼女の母親が、早く学校へ行きなさいといわんばかりに、框の向うへ顔を出した。僕が手に持った本の表紙を見るなり、彼女はいった。「まあ、いやらしい、好美ちゃん! そんな本読むのよしなさい……」 理由もなく否定されてしまった。僕は、武者小路実篤は白樺派と呼ばれるグループの作家で、良心的で真面目な作風です、と彼女の家で母親の顔を見るたびに説明をした。だがとうとう、武者小路実篤が公認されることはなかった。 武者小路実篤って白樺派なんですけど……。 還暦になった私は、青空に向かって、そんなことをつぶやいてみる。 了2019/01/21小倉一純