Gonta398

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箱根へ行く

 高齢の両親を連れて箱根へ行った。車での1泊旅行である。途中、国道1号線の塔ノ沢あたりの、早川の流れが目にも涼しい。新緑が、澄んだ川面へ迫っている。私は、ここの景色がとても好きである。 宿は、知り合いに紹介してもらった企業の保養所だ。最上階の和洋折衷の部屋に案内された。バルコニーには、丸い陶器の露天風呂がある。向こう側の山の中腹には、個人の別荘がいくつも見える。保養所は、小高い山の中腹に建っていた。山側にある廊下の、腰高の窓のすぐ下が獣道になっている。狸や猪が通るらしい。危険だから、深夜の時間帯には裏山へ出ないで欲しい、と支配人がいう。 夕食は1階の食事処である。時計を見ると3時過ぎだ。まだ間がある。夜になるとベッドに変身するソファーに、私は腰を下ろした。両親には目の前に、シングルベッドが2つ用意されている。ふと横の柱に目を遣ると、非常用の懐中電灯が備えつけてある。それを抜いて、点灯させてみた。薄暗い。これではいざという時に危険だと思い、私はフロントを呼んで、電池を交換してもらった。 背もたれの立ち上がった所、つまり座面との境界線のあたりだが、何とはなしに指を突っ込んでみると、何やら食べかすが沢山詰まっている。これは不潔だと思った私は、バケツに露天風呂の湯を入れ、用意されていた入浴用のタオルを浸してよく絞り、掃除を始めた。夜、このソファーベッドを使うのは、私である。 やれやれ、食前のビールでも飲んでおこうかと立ち上がった時、ソファーベッドと床の隙間に目が行くと、そこは埃だらけであった。居ても立ってもいられなくなった私は、重たいそいつを、絨毯の上でスライドさせ移動した。掃除機など置いていないので、先ほどのタオルで、カーペットの埃をひと通り綺麗にしてやった。ここまでやったらついでなので、薄汚れていた小型冷蔵庫の内部も、しっかりと拭き上げた。 食事も終わり、部屋のテレビを点けて、お土産に買ったお菓子を食べながら、両親は話をしていた。呑ん兵衛の私はそれを横目に、冷蔵庫から日本酒を出そうかビールを出そうかと迷っている。ふと、両親の視線の先に目が行くと、画面が曇っているではないか。私は、乾かしてあった先程のタオルをもう1度濡らし、よく絞って、液晶テレビを拭いてやった。見違えるように綺麗になった。その様子を見て私は、自分のことのように嬉しかった。 翌日は快晴である。真っ青な大気の向こう側に、富士山がその雄姿を見せていた。後部座席に両親を乗せ、運転席に座った私は、違和感を覚えた。腰が痛いのである。そういえば私は、食事と寝る時以外は、掃除ばかりしていたような気がする。私は一体箱根へ、何をしに来たのだろうか。「宿賃を払うより、アルバイト料をもらいたかったよ」 両親に冗談をいいながら、ハンドルを握る私の前を、尻を真っ赤にしたニホンザルの親子が横切って行った。  了2019/04/12小倉一純

朝の犬走りから。電柱でござるぞッ!

 角地に建つ我家は去年、車に突っ込まれた。お陰で門は大破した。相手の保険会社から補償金が出て、住宅街の道路に面したそれは補修され、新しくなった。 道路際の敷地内に立つ電柱には、散歩の犬が毎朝オシッコをかけていく。角地なので、立ち寄って足を上げる犬も少なくない。我家にも犬がいたから、そのことを五月蠅くいうつもりはない。 我家の門構えは白を基調としている。立派ではないが
、直して綺麗になると、持ち前の貧乏性が顔を出す。電柱やその周辺にも染みを作りたくないと思うようになったのだ。いろいろな犬が毎日オシッコをかけると、どうしても黒ずんでしまう。その日も、人の好さそうなゴ
ールデンレトリバーが、用を足していった。彼の顔を見て、「コラッ」と怒るわけにもいかない……。  私は毎朝、自宅の庭をグルグルと回っている。運動のためだ。その庭は、大破した南側だけでなく、もう一方も道路に面している。建物はその際まで迫っていて、犬一匹が通れるほどの小道がそこにはある。こういうのを「犬走り」
と呼ぶらしい。防犯用の砂利の敷かれたその犬走りを、
ザクザクと音を立てながら歩くのが、最近の私の日課となっている。短いコースだが、私にとっては室内のエアロバイクや踏台昇降より遥かによい。歩きながら私はいろいろな事を考える。そのことが毎日の楽しみともなっているのだ。その日も、ひと汗かいたところで妙案を思いついた。 「そーだ!」 
 ―― 強い者が縄張りを主張すれば、弱い者は近づけない  …… 
  これが、自然界の掟である。早速私は実行した。ここだけの話だが、トイレに行って自分のオシッコを紙コッ
プに取り、問題の電柱の根本にかけたのである。  翌朝は花冷えだった。都市部のこの辺りもぐっと気温が下がり、桜の季節だというのに山ぎわでは雪の予報も出ている。ダウンジャケットに白い軍手の私はいつも通り、犬走りをザクザクと音を立てながら、早足で歩いていた。と見ると、ポメラニアンが通りかかる。小さな愛玩犬である。何事もなかったかのように彼は、その電柱にオシッコをしている。そして、澄ました顔で、リ
ードを引く少女と我家を後にした。 「あれッ……」  私は会社を早期退職したとはいえ、まだ還暦である。60歳の雄々しい男子なのだ。  その私がマーキングした――、電柱でござるぞッ!  了   2019/04/10小倉一純

今日の犬走り

 朝の運動で、庭の犬走りを行くと、文字通り、歩きではなく、走りになってしまう。腰を落として音を立てず、忍者走りのような態になるのだ。ここ1週間、私はそんな運動を続けている。 最近、或るスーパーへ通っている。埼玉県の小さな八百屋が起源なのだとか。ここの特徴は惣菜だ。ピカイチなのである。我家では朝は作るが、夜は惣菜を利用している。私は4階の屋上駐車場に車を停める。そこからは、京王線の車両基地を眼下に見渡すことができる。遠くへ目を遣ると、正面には富士山。その手前に広がるのは、丹沢山系である。その向かって左の端が、豆腐で有名な大山だ。花粉の季節である。大気は霞み、日本一の山を拝むことのできる日は少ない。スーパーは建物の1階である。私はエスカレーターもエレベーターも使わない。買物が終わって階段を上がると、3階へ来たところで、決まって息が切れていた。それが今ではなんともない。やはり足腰は使わないといけないのだ。 今朝は、向かいの長男がどこかへ出かけるらしく、愛車を我家の犬走りの横へつけた。犬走りは、道路に面した狭い通路である。ちょうど私が、朝の運動を始めたところだった。1周目、長男と目が合い挨拶をした。2週目、私が通ると、彼はアレという顔をした。3週目は明らかに、訝し気な表情となった。その内、見送りのお父さん、お母さん、お姉さんもやって来て、私はそこを10回以上、忍者のように通り過ぎた。 いつも通りの、平和な朝であった。 快走しながら頭に浮かんだ。犬走り、という日本語に対し、英語圏ではキャットウォークというのがある。日本語にすれば、猫歩き、だ。地名や人名には、猿渡、というのもある。どうして、犬は走り、猫は歩き、猿は渡る、のだろうか? そんな愚にもつかぬことを考えながら、今日も私は、犬走りを行く。  了2019/03/30小倉一純

犬走りを行く

 私は、還暦を目の前に、文筆業を志した男である。 40代で会社を早期退職し、現在に至る。30歳頃、統失と思われる症状が発症した。努力の甲斐あり小康状態を得たものの、それ以降は、精神的な不調との闘いであった。履歴書を埋めるキャリアは、文字としては存在するものの、心象としての私の経歴は、無職透明なのである。 物書きの真似事をして気づいたことがある。上っ面の思いつきを書いては、誰の心をも打たない。己の心をぐうっと開いて、そこに見える本当の事を書かなければならないのだ。思った以上に疲れる作業である。 中学生の頃、作家と呼ばれる職業に憧れた。――身を削って書いている……と、有名な小説家がいっていた。私もそのことを、身を以って体験するはめとなったのである。 教養とか才能とか閃(ひらめ)きとか、一番問われるのはそういうことかと思っていた。文筆業というのは肉体労働そのものである。必要なのは、体力なのだ。 机に向かう生活を始めて、その限界を感じるようになった。私は衰えた肉体の力を取り戻さなければならない。 私は統失である。これは2次障害で、1次障害として発達障害をもっている。50歳を過ぎてそのことが分かった。私は、外界からの刺激に過敏だ。人目のあるスポーツクラブなどへは行けない。踏み台昇降も、通信販売のエアロバイクも試してみた。どれも3日坊主である。 最近DIYで整理した、わが家の庭を歩くことにした。断っておくが大豪邸などではない。道路に面した西側は、家屋が際(きわ)まで迫り、犬一匹が走る程度の幅しかない。そこには、防犯のため、砂利が敷いてある。日本の城郭では、文字通り、こんな小道のことを、犬走り(いぬばしり)というらしい。 私は、春の、花冷えの早朝に、ザクザクと小石を踏む音を立てながら、この道を早歩きで行くのである。南側の猫の額ほどの庭へ出ると、小さな梅の木が、紅や白の小さな花を、満開に咲かせている。 文学の夜明けへ向かって、今日も私は、犬走りを行く。  了2019/03/28小倉一純

賊軍なのか官軍なのか

 1981年(昭56)年、日比谷の電々公社本社ビルに、真藤恒(しんどうひさし)がいた。日本電信電話公社の民営化を見据え、最後の総裁としてやって来たのである。1985年(昭60)、真藤は民営化されたNTTの初代社長となる。 その真藤が、父たち現場の長を集め、壇上で言った。当時、父は都内の大規模電話局の局長であった。「えー、私が、電々公社の総裁を務めることとなりました、真藤です」「今日からは、現場の、お前らのことも含めて……」 と挨拶が始まった。 父をはじめ、生え抜きの電々公社職員は、この時皆、怒っていた。自分たちを、総裁とはいえよそ者の真藤に、「お前ら」呼ばわりされたからである。それから真藤は、父たちの間では、賊軍からやって来た悪者とされた。 真藤は九州帝国大学で造船を学び、石川島播磨重工の社長にまでなった人物である。二流だった同社を、造船部門において、名門・三菱重工業を追い抜くまでに育て上げた。折しも造船不況の嵐の中、合理化による大量の首切りの責任をとって同社を退職し、会長の座も辞退していた。 実は真藤は、戦艦大和を建造した、海軍切っての天才技術者・西島亮二の教えを受けている。西島はドイツで造船技術を学んだ、技術将校である。海軍省の上層部に命じられ、4年と数か月で、あの戦艦大和を完成させている。当時艦船は、底部から上へ組み上げていく工法をとっていたが、西島は工期短縮のために、ブロックごとに分けて船体を造る工法を、日本で初めて採用した。 戦後、世界は原油の大量輸送が必須の時代となっていた。石川島播磨の若手技術者だった真藤は、アメリカの海運王の依頼を受け、西島直伝のブロック工法も駆使して、呉市の造船所で、僅か9か月の短期間で、3800トンのタンカーを造り上げた。かつてない巨大船である。船はペトロクレと命名された。ちなみにペトロとは石油、クレとは呉のことである。その後、彼は、数々の合理化案を現実のものとして、同社を発展させている。 そんな真藤が役職にもつかずぶらぶらしていたところへ、白羽の矢が立った。民間人として政府の要職を務めていた土光敏夫が、電々公社の民営化の旗手として、真藤を抜擢したのである。土光は、石川島播磨では真藤の先輩に当たり、同社の社長も務めていた。 真藤が電々公社へ乗り込んで来たことで、次期総裁と目されていた北原安定は、最後まで副総裁の地位に甘んじることとなった。世間では、真藤と北原は、犬猿の仲といわれた。北原は、電々公社切っての論客で、切れ者としてその名を馳せていたのである。 そんな真藤は、新生NTTの初代社長となり、数々の合理化を成し遂げ、電々公社を民営化へと導いた。父たち生え抜きは、当然のことながら北原びいきであった。真藤は、リクルートへ便宜を図った見返りに、リクルートコスモスの未公開株の譲渡を受けたことが発覚して、1988年(昭63)NTT会長を辞任し、後に逮捕もされている。          ◆◆◆◆◆  2014年(平26)に、NHKの朝の連続テレビ小説で、「花子とアン」が放送された。その中で、石炭王・嘉納伝助の役を、俳優の吉田鋼太郎が好演した。実在の筑豊の実業家、炭鉱主の伊藤伝右衛門をモチーフとした役どころである。 そこで私は、筑豊の男が、部下や目下の者に向かって、「お前ら」という時には、それは、男気であり、愛情であること知った。  真藤も筑豊の出身である。初対面の父たちには、その真藤氏の愛情表現は、残念ながら裏目に出てしまったのである。一度賊軍と目されると、する事なす事そういう目で見られてしまうのは、この世の常である。 真藤氏は、この後は、その罪を一切弁明せず、「清廉な土光さんが生きていたらオレは破門だな」と悔やんでいたらしい。公職や経営の一線からは身を引き、奥様の話によると、一個の老人として、生涯を終えたのでそうである。 真藤氏を賊軍から来た悪者と決めつけることは、私には、できなくなってしまった。了2019/03/22小倉一純  

青年時代の悩み

 当時僕は31歳だった。大学の同級生から、結婚式の案内状が来ていた。僕の大学は北海道だった。結婚式の彼は、帯広で式を挙げるらしい。北海道のそれは会費制である。当時は大体1万円が相場だった。偉い人の挨拶もなく立食で、いきなりカラオケで始まるのである。 僕には悩みがあった。後年50歳を過ぎてから判明するのだが、僕には発達障害があったのである。その影響で、僕はひとつのことを考え出すと、ずっとそれに拘ってしまう癖があった。 発達心理学の本を斜め読みしてみると、39歳までは青年期という括りに入ることもある、と書かれている。 僕は、その時、自分が差し詰め、その青年期の悩みでも抱えているような気分になっていた。どうにも頭を離れない事があったのである。 首都圏に暮らす僕は、札幌までは飛行機を使った。そこから帯広までは、列車である。北海道では電車とはいわない。ほとんどの区間が、まだ電化されていなかったからである。当時、帯広までは、特急でも3時間以上はかかったと思う。僕は缶ビールを買って、ぼんやりと広い北海道の大地を眺めていた。 法学部だった彼は、北海道の農協の親玉のような組織に就職していた。花嫁になる女性は、職場の年上の同僚である。彼女の兄も結婚式に来ていて、話を聞くと、彼は、女性の家族に、すっかり取り込まれるようにして、結婚を決めたらしい。彼が、優良物件と思われたということである。普通は女性に対して使う言葉なのだが、望まれて結婚するのだから、彼は幸せなのだろう、とその時、僕は思った。 結婚式が終わり、初秋の帯広の街に僕らはいた。北海道だけあって、この季節なのに、夜の空気の冷たさは、もう肌を刺すようである。風向きによっては、時折、牧場の牛舎のような匂いもする。ああ、ここはやっぱり北海道なのだ。 彼が、なかなか立派なエントランスの、スナックへ案内してくれた。僕と彼と、もうひとり函館出身の同級生の3人で、スナックの立派なソファーに腰をおろした。3人は学生時代の下宿が近く、よく一緒にいたのである。 僕は悩んでいたので口が重かった。適当に愛想笑いをし、思い出話につき合っていた。いや楽しかったのである。離れ離れになった3人が、こうして一同に会する機会がまたあろうとは思ってもいなかったからだ。結婚した彼は、帯広近くの足寄(あしょろ)という町の出身である。あの有名な歌手、松山千春と同郷なのだ。高校の頃までは、足寄の町には信号機が1個所しかなかった、といって彼はいつも自慢していた。 淡いピンクのレースのドレスを着こなしたポチャッとした彼女と、赤いシックなドレスを着た、少しシャープな感じの女性の2人が、僕らのテーブルについた。北海道の女性らしく、フレンドリーである。「そこの彼さー、さっきから何考えてるの?」「……」「お酒、ウイスキーでいいでしょ、氷足しとくね!」「いやさー、オレ、宮沢りえと後藤久美子のどっちが可愛いか、最近考えているんだ」…… 間をおいて、一同大爆笑となった。それからは話が盛り上がり、彼女たちは上手に僕から話を引き出してくれた。「うんうんそれで?」 赤いドレスのシャープな女性が、悪戯っぽい目つきで僕にいった。「だからね、○×▽◇?▼……」 少し酔った僕は要領を得ない答えをした。「だからさー、結局、お前は、宮沢りえはすごくかわいいと思うけど、個人的には、美人の後藤久美子が好きだ、ということなんじゃない」 ということで、結局、話の決着がついた。 翌日、ホテルのフロントで3人が顔を合わすと、昨日のスナックは面白かった、という話でまた盛り上がった。当時、僕だけがまだ独身であった。恥ずかしい話であるが、還暦となる今も、いまだに独り身を貫いている。 そんな僕の青年時代の、帯広の夜の思い出話である。  了2019/03/18小倉一純

理想郷

 明日は雛祭りという週末に、高校時代の同級生数名が集まった。酒と料理を用意して、わが家で酒宴を催したのである。彼らとはここ数年、年に1度は顔を合わせている。有り難いことに、費用は割り勘だ。 彼らは所帯を構え仕事を持っている。尤も、我々も還暦となったので、そろそろ引退を考えている仲間もいる。会議ではないから、議題などはない。思いつくままに勝手な話をするのである。終われば次の話題へ移る。馬鹿話の類も多いが、それがまた楽しいのだ。 1次障害で発達障害、2次障害に統合失調症を持つ私は現在、作家となるべく勉強中である。小説家は、中学の頃から憧れの存在だ。そんな私が一番困るのは、自分の立ち位置の認識である。恋愛をして家族をつくるとか、一生の仕事を持つ、という点において、私は失敗している。病気の影響もあり頓挫したのだ。家族の中での役割、会社や社会での立ち位置というものを、肌で感じることのない生活を送る私にとって、彼らの、発言も含めた一挙手一投足は、とても役に立つ。 私は毎日必ず、原稿用紙で5枚は書くようにしている。腕を上げるための習作である。引き籠って物を書き、時々友達の来る私は、物を書くことを第一に考えれば、理想郷に身を置いているのかも知れない。  了2019/03/06小倉一純

サラリーマンの仕事

 私は鉄鋼会社、中でもステンレス鋼に特化した会社に勤めていた。その会社がかつてステンレス配管というのを開発した。ステンレス製の水道管である。築地の新聞社や銀座の大きなビルなどにも早速採用となった。それまでは亜鉛メッキ鋼管、つまり鉄の管が多く使われていた。ステンレス鋼は、耐食性、耐熱性、低温特性に優れた金属である。年数が経っても、赤さびなども発生せず、とても衛生的に使えるのだ。 入社3年目の私がいる営業の部署に、ひっきりなしに電話がかかっていた。「ステンレスなのに、錆が出ているぞー!」 現場の水道工事屋さんである。調査してみて分かったのだが、水道の蛇口とステンレス配管を繋ぐところに、絶縁パッキンが入っていなかったのである。それまでは、蛇口の金具も水道管も鉄であった。今度はそれが、蛇口は鉄、水道管はステンレス、という具合になる。鉄にニッケルとクロムを混ぜてつくるのがステンレスだ。そんなステンレスは、鉄とは異種の金属なのだ。「異種の金属が水溶液中で接触すると、電位差により電気が流れ、錆が発生する」 という理屈がある。そういう事情なので、鉄の蛇口とステンレス配管の繋ぎ目のところへ、電気を通さない絶縁パッキンを入れる必要があったのだ。その辺りの、会社のアナウンス不足もあり、一時期、錆に関するクレームが多発した。 疲れて行きつけの飲み屋へ顔を出すと、―― 時間まで机にいれば給料がもらえるんだから、サラリーマンは気楽でいいね! …… 口癖のようにおばちゃんはいった。 その後転勤もしたが、たとえお客さんとダイレクトに接触しない、総務や経理などの補助管理部門の仕事でも、定時から定時まで、決った仕事をこなして帰るという日常はまずなかった。朝から晩までひっきりなしに電話がかかって来る。他部署からの問題提起である。私は思うのだが――、仕事をすることって、その問題解決の連続なのである。つまり、仕事はクレーム処理みたいなものなのだ。 サラリーマンの仕事って、そういうもんなんです。分かります? おばちゃん!  かくいう私は、錆のような赤い色のTシャツを着て、同級生と記念写真に納まる年齢となってしまった。  了2019/02/22小倉一純

朝比奈さん

 野坂昭如邸の隣にある青木君の家へは、2~3度お邪魔したことがある。彼とは高校の同級生であり、当時代々木駅前にあったマンモス予備校の勉強仲間でもあった。彼とは、駅舎の中にある小さな飲屋街でよく飲んだ。あっちゃん、という看板のかかった店がそれである。5人も座れば満席になる、文字通り、あっちゃんという小母さんが経営する小さな焼き鳥屋だった。名物料理は煮込みである。それと焼き鳥。カウンター席から見える、厨房の小さな窓の向こうは線路である。ターミナル駅の新宿も近く軌道の幅は広い。代々木駅の保線区の助役や、近くへ仕事で来たという芸大出の広告プランナーなど、いろいろな人物と酒を酌み交わした。青木君の家は杉並だったので、練馬にあるわが家より近いという飲み助の理由で、幾度か泊めてもらったのである。 翌日、家の外へ出ると、当然ながら隣の野坂昭如邸も見える。私はそこで、30を少し回ったぐらいの、背広を着たサラリーマンと顔を合わせた。しっかりとして度量の大きい、受験の悩みでも相談したくなるような人物であったように思う。若いけれど頼もしい感じのする偉丈夫である。サラリーマンは隣の野坂邸を尋ねてやって来ていたのである。なぜだか今でも、はっきりと覚えている。 私がお世話になっている同人の副代表に話を伺うと、野坂昭如と佐藤愛子先生の編集者は同じ人物であり、今は毎日新聞の会長になっている朝比奈豊氏であるという。ということは、まさにこの人物が朝比奈氏であったかも知れない。 還暦を迎えた私は現在、作家となるべく勉強中である。こんなことだったら、あの時のサラリーマンに、――40年後、私は作家を目指しますので、どうぞよろしくお願いいたします……とでも頼んでおけばよかったと思う。 後の祭りである。  了2019/02/18小倉一純

先週の私と、これから

 2016年の私は、自分の脆弱なる存在に危機感を感じて、自分史づくりを始めた。雑感も含めて書き、PDFにまとめて、インターネット上にもアップした。なぜそうするかといえば、やはり本音は、人に見てもらいたい、共感してもらいたい、ということなのだろう、と今にして思う。 アクセス数はゼロだった。文章を刷って人にも渡したが、意図を理解してくれる人も、多くはなかったと思う。努力はすれど報われず、すべてが徒労に終わった感があった。書いても書いても見向きもされない、という状況にはなかなか辛いものがあった。 偶然だが、一昨年、随筆春秋と出会うことができた。そして今回、こうして発表の場を持つに至った。リニューアルしたこのホームページのことである。先週の私は、新しい玩具を得た子供の様に嬉々として、そこへ並べる作品を吟味していた。 ここだけの話だが――、私は、物を書くというのは、芸術であると思っている。文章により、言葉を超越した美の世界を描く。とても崇高な事だ。だが私は、そこに物語が必要である、つまりストーリーを考えなければならないということを、全く自分に含んでいなかった。笑ってしまう。ストーリーを書いてこその作家なのである。 ただ、生意気を言わせてもらえば、私には書きたい事がたくさんあるように思う。30代となってからは、身体をこわして半健康となり(40代に入るまでサラリーマンを続けた)、私は自分だけを見つめて生きて来た。そんな私の中には潜在的に、語りたい世界がたくさんあるのだ。それを上手く取り出すことが出来れば、物語はいくらでもあるように思うのである。それに、ひとつの些細な出来事であっても、切り口を変えれば何通りもの違う話となるのだ。そう考えると、人生が終わるまでにすべてを書けるだろうか、ということの方が心配になってくる。 今は、その話を掘り起こすための手練手管を学ぶべき時なのだ、と思っている。随筆春秋に入会してから、それを勉強しているのである。   了2019/02/11小倉一純